歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

菊屋橋公園と孫三稲荷で発見した旧町名 浅草菊屋橋と浅草阿部川町

この日(2023年3月18日)は、冷たい雨の日だった。

今まで暖かかったのに、急に寒くなった。(最高気温9.2℃)

家を出た時はそれほど降っていなかったのだが、上野駅に着いた時は、普通に降っていた。
そのうち止むのかなと思っていたが、止む気配がなく、たまに風が吹いたりで、足元はびしょびしょ、靴の中も水が入り込んで冷たくなってしまった。
でも、よくあることなので、このくらいで探索は中止しない。

 

掲示板の下に「阿部川町会」と書かれていた。

この辺りは探索したことがあるのだが、今まで気が付かなかった。

 

旧町名由来案内

本町は、昭和十一年(1936)年に江戸・明治時代からの浅草栄久町の北半分、同阿部川町の南半分、同森下町の西隅を合わせ一丁目となり、同栄久町の北部、同阿部川町の北半分、同南松山町の東側大部分を合わせ二丁目として起立した。
町名の由来は、この地の中央部を南北に流れていた新堀川の橋である菊屋橋にちなんで付けられた。菊屋橋は、下谷と浅草を無図部、江戸時代以来の主要道路の新寺通りを渡す橋だった。新寺通りは現在の浅草通りである。
浅草栄久町は、明治二年(1869)に浄念寺、東漸寺、天台龍寶寺、善照寺、常福寺、実相寺、本法寺、浄土龍寶寺の八か寺の門前町を合わせ起立した。
浅草阿部川町は、元禄九年(1696)、それまでの幕府下級官吏の大縄拝領地から代官細井九左衛門の支配地となり、その翌年誕生した町である。町名は、この地の地主が皆現静岡市内の安倍川から移ってきた者であったため付けられた。

 

旧町名区域図

浅草栄久町、浅草阿部川町、浅草森下町、浅草南松山町がどのようになっていたかも示してくれていたら、もっとよかった。

 

菊屋橋公園

 

池波正太郎作品の舞台

阿部川町
池波正太郎が育った浅草永住町の東側には江戸時代、新堀川に沿って寺と屋敷に囲まれた阿部川町という町がありました。自身が暮らした家の隣町を多くの作品の舞台として描いています。
鬼平犯科帳』では大工小僧の異名をとった泥鰌の和助が営む櫛屋、長谷川平蔵配下の 同心・小柳安五郎の菩提寺・竜源寺(架空の寺)、大盗賊・雨乞い庄右衛門を頭にもつお照の家などが阿部川町にある設定で登場します。
仕掛人・藤枝梅安』に登場する橋場の料 亭・井筒の座敷女中・おもんの実家もこのあ たりにあるとされています。伝説の大盗賊を描いた『雲霧仁左衛門』では、一味の座頭・富の市がこの町に住んで、仁左衛門が最後に狙った、菊屋橋近くの大店・越後屋を探っていました。
阿部川町は小説のみならず、 のちにテレビドラマとして映像化された『鬼平犯科帳』に
も登場しています。

【案内板について】 池波正太郎作品の舞台となった地域を紹介する案内板を区内各所に設置しています。各案内板の場所は下の二次元バーコードからご覧いただけます。作品の世界に浸りながら街歩きをお楽しみください。 台東区

 

川柳ゆかりの地

台東区元浅草三丁目二十番六号 区立菊屋橋公園

柄井川柳(初代)は享保三年(一七一八)生まれ、通称を八右衛門、名を正通という。柄井家は祖父図書の代から浅草龍宝寺門前の名主を務めており、川柳も宝暦五年(一七五五)から龍宝寺門前の名主となった。その二年後、宝暦七年(一七五七)から前句付の点者(選者)として活躍している。 寛政二年(一七九〇)死去。墓は龍宝寺(天台宗、蔵前四-三十六-七)  にあり、都指定旧跡となっている。 
 前句付は出題された前句(主に七七の短句)に付句(主に五七五の長句) をつけるもので、川柳が点者を務める万句合は広く人気を集めた。明和二年(一七六五)、川柳の選句集『誹風柳多留』初編の刊行を一つの契機として、付句が独立した文芸となっていった。この文芸は「川柳点」「狂句」 などと呼ばれたが、明治中期から「川柳」の名称が用いられるようになった。個人の号名が文芸の呼称となるのは稀有のことである。 
この地域で活躍した柄井川柳の偉業を記念するため、有志の運動により当公園には平成元年三月に柳が植樹され、平成四年四月には柄井川柳碑が建立された。

平成十七年三月
台東区教育委員会

柳が生い茂っている頃の写真もあった。(撮影日2019年11月9日)

 

孫三稲荷

阿部川町と彫られている。

 

左側面

菊屋橋と彫られている。

 

台東区元浅草三丁目十九番地七号

この付近は、「御府内備考」によると、慶安年中(1648-52)、川村某が駿河國安倍川(現在、静岡県静岡市域を中心に流れる、一級河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移したことにより安倍川町と称していた。
孫三稲荷は、当地に伝わっている由来によると、天正年間(1573-92)、徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があり、実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正十八年(1590)関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村某の手により江戸にもたらされ、慶安年中当地へ移したという。この伝承は、江戸へ招来した年も「御府内備考」と異なるが、「町方書上」に、慶安に安倍川より移安したことが記されており、江戸初期には地域の鎮守として信仰を集めていたことが知られる。
「町方書上」にはまた、当町に店借していた修験者の善明院という人物が「正一位孫三稲荷大明神」を司っており、神像は木造で長さ三寸(約十センチメートル)であったと記されている。
現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災東京大空襲などによって、記録や社殿を失ったが、昭和二十六年、当町会(阿部川町・菊屋橋町会)によって、社殿が再建され、毎年三月八日に例祭が行われている。

平成八年七月
台東区教育委員会

 

調べていたら以前発見した旧町名の痕跡があった。

発見日  2021年3月20日

発見場所 東京都台東区寿一丁目