歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

裏小路と旧秋葉邸 裏小路公園 in さいたま市岩槻区

訪問日  2023年5月1、4、8、9日

訪問場所 埼玉県さいたま市岩槻区4-4-19

岩槻藩遷喬館

奥に見えるのは岩槻藩遷喬館

遷喬館は、江戸時代後期の寛政十一年(一七九九)に岩槻藩の学者児玉南柯(こだまなんか)が青少年の教育のために創立した家塾で、後に藩校となりました。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に、武芸稽古所、菅原道真を祀る菅神廟(天神社)、南柯の自宅「梅亭」、築山・池泉、展望台などが設けられていました。
 現存する建物は、遷喬館の学舎(校舎)として使用されていたもので、十五畳と九畳からなる二間続きの教場を備えています。
 江戸時代には全国に多くの藩校がありましたが、県内において保存されている藩校は、遷喬館が唯一のもので、昭和十四年三月三十一日に埼玉県の文化財(史跡)に指定されました。
平成十八年三月
さいたま市教育委員会

裏小路

 

武家屋敷のような塀が続いている。

 

竹でできた行先案内板

 

バラがきれいに咲いているお宅があった。

玄関にある切り絵行灯を撮っていたら、ご主人が出てきたので、「撮らせていただいています。」と言ったら、「どうぞ撮ってください」と言われたので、バラも撮らせていただいた。

旧秋葉邸 裏小路公園

築地塀が低く開放的な公園となっている。

 

裏小路にある門

 

人形彫刻作家「磊(らい)」による人形が置かれている。

屋根の下にいる男の子

つばめのヒナたち

 

男の子が柱をよじ登っている。

 

木の下小路の門

 

 

女の子が左手に持っているひな人形

 

東屋

屋根の上の人形

 

御影石の彫刻遊具

 

皆とてもユニークすぎる表情と形をしている。

お尻丸出し。

 

女の子らしいが顔が怖い。

 

雲に乗っているかみなり様

 

雲だが、かみなり様のお尻にも見えてしまう。


枯山水

この枯山水の石組は、岩槻の語源と言われる槻木(けやき)が根付いた大地の大岩を、黒砂利の流れは元荒川と岩槻城址の曲輪(堀)を、白砂は古代から現代まで続く長い時間を風紋で表現しました、稚児を守る雛めぐりの庭です。

この公園は旧岩槻町第六代町長秋葉保雄氏の邸宅跡地の一部が寄付され建設されてたものです。

 

旧秋葉邸 裏小路公園

旧秋葉邸 裏小路公園について
地元自治会では、さいたま市との合併以前から「景観形成勉強会」を立ち上げ、この地域の歴史と景観について勉強し、拠点となる公園の実現に向けた活動を行っていました。
この公園は、この地が公園予定地となったことを契機に、城下町・人形文化を取り入れた公園計画を自治会・住民・市が協働して立案し、建設されたものです。

岩槻の歴史
岩槻城室町時代関八州の北の砦として築城されて以来、城下町としての岩槻の歴史が始まります。
江戸時代を迎えると、岩槻は江戸近郊の城下町として栄えるようになります。 岩槻城大手門外の一帯を中心に武家屋敷、街道沿いには町家が配置されました。また旧来の街道は将軍の日光参拝路でもある日光御成道として整備され、城下町はその宿場町としても賑いました。
現在地である裏小路公園周辺には、遷喬館や時の鐘な由緒ある史跡が多く、東へ足を延ばせば、当時の面影を残す岩槻城址公園があります。

裏小路について
岩槻藩士の居住地の道は小路と呼ばれ、町人の住む城下町とは区分されて、両者の境には木戸が設けられていました。
ここ裏小路は、大手門につながる小路の一つです。

江戸時代の岩槻城は、城郭・士族屋敷・城下町から成り立っていました。 城郭は、本丸、二の丸、三の丸を中心に幾多の曲輪がありました。士族屋敷は、江戸時代初期と後期では異なっていましたが、小路と呼ばれる道の両側に屋敷を構えていました。城下町は、九町四か新田からなり、その一つが写真にある横町(栄町)です。この写真は、昭和二十七年八月七日の七夕のときに撮影されたもので、家並みや竹の七夕飾りなど当時の風情がよくわかります。

撮影ポイント

 

昭和27年8月7日撮影

 

平成22年1月21日撮影