橋脚が美しく見え始めてきた。
今までも感じてはいたのだが、まだその世界に足を入れていなかった。
この投稿がきっかけになるかもしれない。
訪問日 2024年5月11、18、22日
秋葉原方面

神田方面




橋脚の中ほどに補強がされており、その造形も美しい。
平永橋架道橋 平永橋ガード



名前の由来:旧町名「平永町」に由来する。
歴史
1699(元禄12)年に寛永寺門前下谷車坂町内を内神田に移され、「神田平永町」と名付けられた。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、須田町二丁目に編入となり消滅。
「平永橋架道橋」と「平永橋ガード」、町が付いているいない。どうして「平永町橋高架橋」のように町を付けなかったんだい?
神田須田町二丁目町会 町会設立六十周年記念事業
神田須田町二丁目には、JRのガードが4か所あるが、環境イメージが芳しくなかった。そこで、町会はそのガードを何とかできないものかと考え、JRの協力を得て壁画によるイメージアップを図ることとした。地元住民や子どもたちから寄せられた100点以上の作品の中からコンテストで選ばれたものをベースに美大生が基本デザインを作成した。そして、2011年(平成23年)1月16・22日に、子どもからお年寄りまで多くの手で壁画が描かれた。壁画の規模は約2m×17m。
神田側


上半身裸のおっさんがいたので、気になった絵を撮れなかった。
日を改めていくと、そのおっさんは布団の中で寝ていたので、起こさないように撮った。
もっともこんなところで寝られるなら、人が歩いていることなど気が付かないだろう。



秋葉原側







現在の神田須田町二丁目(かんだすだちょうにちょうめ)が生まれたのは、昭和八年(1933年)のことです。大正十二年(1923年)の関東大震災の後、東京の町は再編されました。その一環として元柳原町、柳町、小柳町、平永町などの町が合併され、いまの町の区域が定められたのです。
関東大震災から二十二年後の昭和二十年(1945年)、第二次大戦下の空襲によって東京はふたたび焼け野原となってしまいます。とくに三月十日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされました。そんな中にあって、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができました。
戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業(なりわい)とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。その賑わい(にぎわい)も、空襲から命をかけて町を守った人々の努力があったからこそ生み出せたのです。町を愛する住民の気持ちは、戦後も変わりませんでした。
昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈(かいわい)には、神田神社・柳森(やなぎもり)神社・下谷(したや)神社の氏子(うじこ)が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、三社の祭礼を五月にまとめてとりおこない、住民が一丸(いちがん)となって伝統ある神田の祭りを盛り上げています。
神田須田町二丁目界隈

