歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

東覚寺、田端八幡神社、童橋公園、童橋、芥川龍之介旧居跡から上の坂を下って与楽寺まで

もともと訪れる予定をしていなかったが、探索していたところ、短い距離の間だったが、いくつかの見所がある場所があった。



訪問日 2024年6月8、13日

東京都北区指定有形民俗文化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
北区田端2-7-3 東覚寺

参詣客が赤色の紙を貼るため赤紙仁王の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641) 8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。

平成21年9月 東京都北区教育委員会

赤紙仁王尊

石仏仁王の背銘に「施主道如宗海上東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。西暦一六四一年より露仏で立っていることになる。仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、 いつのころからか赤紙(悪魔を焼徐する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代りと心身安穏を願うようになった。
右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の吽像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。阿吽の姿は密教で説く胎蔵界金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。阿像から吽像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。

白龍山 寿命院 東覚寺山主

右側の阿像の方が赤紙の数が多いような気がするが、こちらの方がご利益があるということだろうか?

調べたところ、左右の仁王様それぞれに自分の具合の悪い部分と同じ部位に赤紙を貼るとのことなので、たまたま見た時、風に飛ばされたりして、そのように見えたのだろう。

田端八幡神社

 


田端八幡神社
北区田端二―七ーニ

この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治五年(一一八九) 源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(一八六七)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成四年(一九九二)に氏 子たちの協力のもとで再建され、翌年五月に遷座祭が行われて現在の形になりました。 境内には、稲荷社のほかに田端富士三峯講が奉祀する富士浅間社と三峰社があり、富士 浅間社では毎年二月二十日に「富士講の初拝み」として祭事が行われています。

平成九年三月 東京都北区教育委員会

石橋


田端八幡神社



童橋公園

文化財説明板室生犀星の「庭石」と「苔」


この『庭石』と『苔』は、ここから北西へ約200m先にある滝野川第一小学校の近くに住んでいた室生犀星(旧田端523番地に居住)の庭にあったものです。犀星の庭造りは、有名で、故郷金沢や軽井沢にも庭を造りました。また、「庭をつくる人」など、庭に関する随筆や評論も数多く発表しています。詩集「高麗の花」に「石一つ」と題して、
石を眺め悲しいといふものあらんや。
姿をかしく
されど皺深く蒼みて
雨にぬれるとき悲しといふものあらんや。

中 略

こころあらば
誰かわが家に来りて
水なと打ちそそぎたまえ。
語ることなき石あをみて
しだいにおのが好む心をば得ん。
……と庭の石を詩っています。

犀星は、大正5年から田端に10年近く住み、三児を得ましたが、長男豹太郎を幼くして亡くしました。その深い悲しみを「童子の庭]に
…………亡児と[庭」との関係の深さは「庭」へ抱いて立った亡児の俤は何時の間にか竹の中や枇杷の下かげ、或は離亭(はなれ)の竹縁のあたりにも絶えず目に映り、自分を呼び、自分に笑いかけ、自分に邪気なく話しかけ、最後に自分の心を掻きむしる悲哀を与えるものだった。
……と書いています。

当時、犀星の隣家には、芥川龍之介の恩師である広瀬雄(府立第三中学校校長)が住んでいました。昭和3年、犀星はこの悲しい想いから逃れるように、田端を去り大森馬込ヘ引越しますが、引越しを決意した犀屋は、広瀬に庭石の引き取りをもちかけ、庭を造るなら「ついでに苔も上げましょう。」ということになったようです。ちなみに、犀星は、この「苔」を叡山苔と呼んでいました。
田端は、大正から昭和初期にかけて日本のモンマルトルともいわれ、幾多の文士・芸術家が住んでいた街でしたが、昭和20年惜しくも戦災により、すべて灰塵に帰し、いまは、その当時を偲ぶよすがとてありません。しかし、この「庭石」と「苔」は犀星の深い想いを秘めて奇跡的に広瀬宅に生き残りました。
この「庭石」と「苔」は、広瀬氏のご長男、淳雄氏のご好意により本公園設置を記念して寄贈されたものです。

庭石

苔は環境に合わず、この公園では見ることができなくなったそうだが、広瀬雄の旧居及び北区王子の名主の滝公園では犀星の育てていた苔を見ることができるそうだ。

童橋

童橋から田端駅方面を見る。



童橋から動坂下の交差点方面を見る。



子どもたちが遊んでいる絵が橋の両側に飾られている。

今では、この辺りに凧あげができる場所やトンボとりができる場所はないだろうなあ。

東台橋から童橋を見る。

当然後で知ったことだが、TBSドラマ「ペンディングトレイン ―8時23分、明日 君と」で山田裕貴演じる萱嶋直哉が新聞配達をしているときに通った陸橋がこの橋だったそう。

橋を渡ると芥川龍之介記念館建設予定地があった。


当初は去年3月までに開館する予定だったが、コロナ禍の影響で遅れたため、今年度から工事を始めて2027年の没後100年を前に、2026年完成予定とのこと。

芥川龍之介の単独の記念館は、全国で初めてで、当時の書斎や縁側などを再現し、ゆかりの品や関連資料などを展示するらしい。

すぐ近くが芥川龍之介旧居跡だった。

作家芥川龍之介(一八九二~一九二七)は、大正三年から昭和二年までの約十三年間、こ
の地(当時の田端四三五番地) 田端一―二〇に住んでいました。
この間「羅生門」、「鼻」、「河童」、「歯車」等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡をのこしました。

公益財団法人 北区文化振興財団

田端文士村記念館

「上の坂」を下りる。

坂名の由来は不詳です。この坂上の西側に、芥川龍之介邸がありました。芥川龍之介大正3年からこの地に住み、数々の作品を残しました。また、この坂の近くに、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでいました。
 芥川龍之介は、その住居を和歌に詠んでいます。
  わが庭は 枯山吹きの 青枝の
     むら立つなべに 時雨ふるなり
平成9年3月
東京都北区教育委員会

いい感じの階段の坂



与楽寺坂

坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京-府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十 五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、 画家の岩田専太郎漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
平成5年3月
東京都北区教育委員会

与楽寺



奥には弘法大師像、手前の花はヤマボウシ



左側には石塔群



山門とヤマボウシ



賊除地蔵の伝承地

与楽寺(田端一ー二五ー1)
 与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二○石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。
 さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
 ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。
 仏教では、釈迦が入滅してから五六億七千万年後に弥勒が現われるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・
子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。

平成元年三月 東京都北区教育委員会