かなり前、紫陽花の季節に来たことがあるが、季節外れの今、特に当てがあった訳ではないが、2024年8月29日、折角近くに来たので、お参りすることにした。
足元もあまりよくないので、本堂まで行って引き返す。
五重塔
以前来た時はなかったような気がするが、趣のある建物なので、外から見学してみることにした。
実相閣
実相閣縁起
平成十八年(二〇〇六年)は戦後六十年となる年で、先代・山田日永貫首に招かれて現六十世河上順光がお手伝いに参ったのは今より五十五年前であります。明治以来神の国は亡びないと謂う日本国の考えは原爆投下と同時に消え去ったが、山河は残り、田畑は毎日作物を生産できたのであります。当時戦争中より全く手入れの出来ない本土寺は爆撃こそ受けなかったが雨漏りがひどく廃寺寸前の状況であり、総代嶋根幸造氏と共に農村の檀家を廻って協力を頼んで歩きました。
この田畑を残して呉れた先祖を祀る寺を勇気を振り起して雨漏り丈でも止めようではないか、その5、60軒の檀家の中心となったのが且つての四院六坊の中の実相院の檀家24、5軒、他に小金・東平賀・栗ヶ沢・向小金・今谷・二ツ木・古間木等を入れ、五十軒足らずでありましたが、勤労奉仕により、代わる代わる泥を共にこねて、屋根の雨漏りを止めることから始まって、やがて全檀家も参加して五十五年にわたる復興が始まったのであります。先ず、像師堂大改修、妙朗堂大改修、長廊下新築、本堂大改修、方丈・書院の改修、宝蔵修理、開山堂新築、五重塔新築、宝物館新築、仁王門その他三門の修理、茶室六棟の新築等が行われ、また、明治維新廃仏毀釋の際に削り取られた境内地三千坪を買い戻し、桜・菖蒲・紫陽花・紅葉等を植えて今日に至りました。この当初日本人が敗戦のショックで茫然自失していた頃に本土寺復興にかけた農村地区の檀家の情熱も、二世三世と変る子、孫子の人達の為、あの時期あの混乱の中で菩提寺復興という情熱にかけた先祖を忘れぬように、本尊両脇に実相院歴代と総檀方中、先祖代々の位牌を祀って実相閣結社としたものであります。
本土寺 第60世 河上順光
実相閣の門に設置されている「小金町役場門柱由来」
小金町は江戸の中心より約三十二キロメートル、約八里、この間幾つかの渡しがあり、その一つに「矢切の渡し」もありました。昔から旧水戸街道を下る人はここが第一日目の宿場であったといわれて来ましたが、東葛郡史にもあるように「小金の若衆はよかし、襷一本で飯食える」等と云われ、大変宿場として栄えましたが、明治になり常磐線が出来て宿場の必要は無くなり、急速に寂れてきて、遂に松戸市に合併されることになりましたが、江戸より仙台までに至る間で寺の本山が二箇寺あったのは小金町丈です。一つは浄土宗で増上寺に次ぐ東漸寺と、日蓮宗では本門寺と同格であった本山本土寺がありました。
昭和二十九年(一九五四年)、小金町が松戸市に合併されました時、小金町役場の門柱を頂いて長い間そのままになっていましたが、近来全国的に「ふるさと復興運動」が盛んになって、本土寺も日蓮聖人開宗七百五十年(平成十四年)記念事業の一つとして、その昔、四院六坊の一つであった実相院跡に実相閣結社(目の前の建物)を建立し、工学博士吉田桂二氏の設計により徳川中期の建築を模し(一部改築)建立された時、且つての小金町の記念として、この門柱が建てられたものであります。
平成十八年 長谷山 本土寺
この由来は実相閣の門に設置してあったので、最初、実相閣の入口辺りが小金町役場関連の建物かと思ってしまったが、違っていた。
実相閣から山門に向かう途中に、門柱があるのに気が付いた。
左側の門柱に「小金町役場」と刻まれている。
これがそう、小金町役場の門柱だった。
裏側
右側 御大禮記念 昭和三年十一月十六日
左側 奉納者の氏名が刻まれているようだ。
中々見つけられなかった小金町時代の旧町名の痕跡、ようやくここで出会うことができた。
本土寺を訪れて大正解!
と思っていたのだが、調べていたら、松戸市に唯一残っている小金町道路元標が、歩いた歩道にあった。
なぜ気が付かなかった?
そうだ、思い出した。
その歩道は歩いていなかったんだ。
事前調査もあまりしていなかった。
不覚じゃ。
いずれ再訪しなければいけなくなった。