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旧町名「津田沼町久々田」と菊田神社

2024年9月3日、習志野市津田沼付近を探索していたところ、気になる名称の公園があった。

久々田公園

「久々田」は旧町名かもしれない、とその時は思った。

探索を継続していると、「津田沼町」時代の旧町名を発見!


先ほどの公園と同じ「久々田」だった。

事前に調査した限りでは、町が取れた町名しか確認できていなかったので、これはうれしい発見だった。

「沼」の字が変。

番地が書かれていない。

と、ツッコミどころのあるこの表札。

でも、歴史を感じさせる文字だ。

「久々田」は「くぐた」と読む。

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行にともなう明治の大合併により、千葉郡北西部の谷津村・久々田村・鷺沼村・藤崎村・大久保新田が合併して千葉郡津田沼村が発足(谷「津」・久々「田」・鷺「沼」の合成地名)。
旧村の区域により、谷津・久々田・鷺沼・藤崎・大久保の各大字を編成する。

この時の経緯を記した『千葉郡町村分合取調』の「新村名選定ノ事由」には、「旧村名ノ内、其一ヲ存スルヲ欲セス」「稍(やや)大村ナルヲ以テ、三村名ヲ折衷(せっちゅう)シ」と比較的規模との大きな三つの村から津田沼に決めたとある。
しかし、この資料をよく見ると、「久々田村ニ字菊田ノ地名アリ、著名ナルヲ以テ、今其地名ニ従ヒ」という文字が、上から赤線で消した箇所がある。
このことから、最初は「菊田村」に決まったものが、後に「津田沼村」に変わったことが分かる。

1903年明治36年)6月3日
町制を施行し、千葉郡津田沼町となる。

1954年(昭和29年)8月1日
同年7月6日に千葉市編入された旧千葉郡幕張町の区域のうち実籾・愛宕・安生津・長作・天戸および馬加(まくわり)のうち屋敷台を編入。千葉郡習志野町と改称し、即日市制を施行して習志野市となる。
その際、従来の大字久々田の区域を以って津田沼町を編成する。

となると、1954年以前のものなので、70年以上前のものと思われる。

この表札を発見してから訪問したのだが、次に紹介する菊田神社の御由緒に「久久田」の文字が書かれていた。

菊田神社

菊の飾りが印象的。

古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(西暦八一〇年代)今より約一、二〇〇有年前より御社として祭祀されてありました。当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は丘で、砂土堆積している入江でありました。住民の多くは西側の丘に住居を構えて生活をして居りました。住民は嶋の上に鎮座されていた御社、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。なお、旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。また、住民は地内並びに周辺(近隣)の人と縁結びしますと、これがまことに夫婦円満の家が多く出生児達もみんな丈夫に生長し、長命の人も多く、それ故に住民はこの久久田大明神を特に縁結びの神、厄難除の神、安産の神として崇敬し、商売繁昌の神(後年この地に商人が出来て、このお宮に祈願したところ何れも商売が繁昌した)としても崇敬しました。
治承四年、藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着の出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の人皇六十代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉斎崇敬しました。後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。
その後星移り年変りて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の丘の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。またこの境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを記念とするために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。

御社号改名
寳暦年間桃園天皇の御代に社名を菊田大明神と改名(古老の云伝えによれば、菊は吾が国の名花、菊文字は久久の文字よりも御社名には相応しいとの所以によって改名されました。)

御社殿
康元元年に木造に改造営、慶長二年五月、正保三年九月、寛保二年九月、「寳暦三年九月拝殿を造営」寛政八年十一月、文政三年八月、弘化三年九月に夫々改造営、明治二十六年十二月に拝殿玉垣再造営、昭和四十八年九月、本殿、拝殿屋根銅板瓦葺に改修、平成七年九月神輿新調、神輿庫改築。

合祀
大正元年十一月、区内各町(本郷、下宿、浜宿)に鎮座されていた八坂神社、金刀比羅神社大山祇神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。

※寳暦年間
 1751年から1764年までの期間

桃園天皇
 日本の第116代天皇
 1741年4月14日〈寛保元年2月29日〉- 1762年8月31日〈宝暦12年7月12日〉
 在位:1747年6月9日〈延享4年5月2日〉- 1762年8月31日〈宝暦12年7月12日〉

津田沼1丁目公園にある千葉工業高校の石碑

ここに刻まれている校歌に「紅燃ゆる久久田の海に」と「久久田」が詠われている。

久々田の海は1967年(昭和42年)と1977年(昭和52年)に埋め立てられて、住宅団地、工場地が造成され京葉線が通り、駅もでき、<干潟一里>とされる遠浅の海はなくなり、見る影もなくなった。