歩・探・見・感

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多磨村時代の社會事業助成會會員章

多磨霊園前の通りには老舗の石材店が立ち並んでいる。

culture house148ゆめたま(玉川石材旧本館)

創業年:1897年(明治30年

建築年:1928年(昭和3年)木造2階建入母屋造、桟瓦葺

2023年には、『カフェ』『レンタルスペース』『自主学び場』『フリースクールTAMAユースセンター』『民間学童保育TAMAキッズセンター』という5つの機能が一体となった場所となった。

太田家

右書きで「御案内休憩所」とある。

二色のモルタルで飾った間口の広いファサードが特徴的。

大きな霊園付近では歴史がありそうな石材店もある。近代建築の分類としてはカテゴライズされていないようだが、独特の建築様式で、素晴らしいものも少なくない。

今回は、ある石材店で発見した古き良き時代のものを紹介することにしよう。

発見日  2024年9月19日

発見場所 東京都府中市紅葉台二丁目

多磨村 社會事業助成會 會員章

右書きなので、戦前からあるものかもしれない。

以前、南多摩郡にあった「多摩村」を下記の記事で紹介したことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

今回は北多摩郡多磨村

「多摩」と「多磨」

間違えそう。

多磨村の歴史は、

1889年(明治22年)4月1日
町村制の施行に伴い、上染屋村、下染屋村、常久村、押立村、小田分村、車返村、是政村、人見村が合併して発足。

1893年明治26年)4月1日
東京府へ移管。

1949年(昭和24年)9月1日
押立・常久の一部(多摩川右岸部出作地)を分離し、南多摩郡稲城町に編入

1954年(昭和29年)4月1日
府中町、西府村と合併し、府中市を新設。同日多磨村廃止。

となっている。

一方、南多摩郡多摩村の歴史は、

1889年(明治22年)4月1日
市制町村制施行により、関戸村・連光寺村・貝取村・乞田村・落合村・和田村・東寺方村・一ノ宮村の8ヶ村、および百草村・落川村両村の飛地が合併して多摩村となる。

1964年(昭和39年)4月1日
町制が施行され、多摩町となる。

1971年(昭和46年)11月1日
市制が施行され、多摩市となる。

となっている。

北多摩郡多磨村は、すぐ近くに南多摩郡多摩村という村(現在の多摩市)があるので、同じ村名になるのを避けたと言われている。

北多摩郡多磨村が折れる形になったのは、南多摩郡多摩村の方が「多摩」としての歴史が長く、奈良時代から武蔵国多摩郡を名乗っていたからとのこと。

多磨村の社会事業助成会のことをネットで調べてみたが、情報は見つからなかった。

品川区の資料に、社会事業助成会について書かれている文章があった。

『大井隣保館は、大震災の善後策として交付された金員で建設経営された。経営主体は、財団法人大井社会事業助成会で、これは昭和六年に発足し、方面委員の活動を援助するためにつくられた。町長以下の町の有力者が中心となって、会員の出金や寄付金を資金としている。町内会と同じように、公私どちらともいえない団体によって、なかば公的施設として運営されていた。

 おもな事業内容は、保育事業・図書事業・診療事業(先にのべた済生会大井診療所は、この大井隣保館内に設置されていた)児童健康相談および訪問事業・人事(法律)相談・教化事業等いろいろ行なわれていた。』

多磨村の社会事業助成会も同様の事業を行っていたのかもしれない。

現町名の「紅葉丘」の歴史

1889年(明治22年) の町村制施行から府中市発足までは北多摩郡多磨村に属していた。

1954年(昭和29年)4月1日に府中市成立により府中市の一部となる。

1964年(昭和39年)に従前の大字人見・小田分・上染屋・車返の各一部から成立した。

町名の由来

上染屋の小字名紅葉が丘が地域内で一番広く、その名も良いということで住民全員の賛成で町名が決まった。

今となってはレアになりつつある住所プレート

琺瑯住所プレート

小さいので見つけにくい住所プレート