歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

大通り公園に展示されている彫刻たちと「橋の詩」のレリーフ in 神奈川県横浜市中区

2024年10月1日の主な探索を済ませ、大通り公園を関内駅に向かって歩いていた。(2024年10月3日追加の写真を撮るため、関内駅から歩いていく。途中で結構な雨に降られ、サイアク。でも探索途中には止んだ。)

南区から中区へ


大通り公園の案内板



階段を下りていく。

オシップ・ザッキン「働らく女」

水の広場にわたる横断歩道がないようなので、地下に降りた。

そこは、市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅の改札前だった。

そうしたら、左側の壁に

が展示されていた。

何だ、これは?

大通り公園は、昭和48年まで吉田川・新吉田川と呼ばれた一本の運河でした。昔をしのぶ多くの市民の方々から、かつての運河にかかっていた10の橋名板を保存し、公園内への設置を望む声がありました。
そこで、これらの橋銘板を含む記念レリーフとして設置することにいたしました。
こうした歴史的、文化的遺産を身近なものとして残し、人間性あふれる街づくりのシンボルとしたいと思います。

昭和56年10月31日
横浜市長 細郷道一

旧吉田川・新吉田川


大通り公園周辺は、江戸時代初期まで南北を山に囲まれた入り海でした。明暦2年(1656年)に吉田勘兵衛が、 江戸幕府の新田開発奨励に応え、この地の埋め立てを行ない、ここを吉田新田と呼びました。
横浜開港の明治時代になると、水陸の交通の便をよくするために、運河の開削事業が行われました。明治3年(1870年)に堀割川が開削され、その時の土砂によって吉田新田の沼地の一部が埋め立てられました。そこが、現在の蓬莱町、万代町、不老町などの町であり、その中央を貫いて吉田川(蓬萊橋―千秋橋間)が築かれました。 さらに、明治29年(1896年)に、吉田新田の残された部分が埋め立てられ、その際、吉田川が延長されて新吉田川と名付けられました。
吉田川の4つの橋(蓬萊橋、権三橋、鶴之橋、千秋橋)は、明治5、6年に、また、新吉田川の橋のうち、山吹橋、武蔵橋、長島橋、横浜橋、日本橋は、運河完成直後(明治30年頃)に架けられましたが、阪東橋だけは遅く、関東大震災後の大正15年の架橋です。

大通り公園


大通り公園は、吉田川・新吉田川を埋め立てたのち、総延長1.200m、平均幅30m、面積3.6haの帯状の公園と して、昭和53年9月9日に開園しました。 新しい「ヨコハマ」を築く為の都心部緑地整備事業の中で、大通り公園は中心的役制を果しており、この公園の完成により、山下公園日本大通り横浜公園・くすのき広場・大通り公園・蒔田公園と続く、続の軸線がほぼ完成しました。
公園は、野外ステージのある「石の広場」、水の一生をテーマとした「水の広場」、地下鉄駅につながる「サンク・ ガーデン」、「みどりの森」の4つの部分から構成されています。また、公園内各所には、ロダン、ムーア、ザッキンらの彫刻が設置されています。

タイトル「橋の詩」



橋名板

蓬莱橋 – 権三橋 – 鶴之橋 

千秋橋

山吹橋 – 武蔵橋

昭和3年頃(武蔵橋付近)

長島橋 – 横浜橋

明治45年頃(長島橋付近)

阪東橋 – 日本橋

昭和30年頃



ムーア「3つの部分からなるオブジェ」



水の広場



ロダン「瞑想」

さりげなく名作が並んでいた。