今回は所沢市立南陵中学校周辺だけの個人的所沢遺産という超ローカルな話題。
普通の人なら見落とす、というか関心がないものが多いと思うが、記事を書きたくなるんだよなあ。
これらに響く人は少数派だろう。
でも気にしない。
超マイナーなもの好きな自分だから。
個人的〇〇遺産はそういうものだから。
2024年10月15日、所沢市久米にある所沢市立南陵中学校を通ると、
周辺にいくつか興味深いものを発見した。
この説明板は今回紹介する中では、メジャーなものになってしまうが、これがきっかけで、この記事を書くことになる。
東の上遺跡第三十六次調査
東山道武蔵路の経路(推定)
検出された東山道の遺構(東の上遺跡第36次調査当時)
東山道武陵路は、古代に造られた幹線道路の一つで、東の上遺跡内である南陵中学校校庭で大規模な道路跡が発見されています。
平成元年(一九八九)十月、南陵中学校で雨水対策の貯留浸透工事に先立ち、校庭部分の発掘調査が実施されました。発見された多数の竪穴建物跡・掘立柱建物跡のほか、特に注目されたのは、幅十ニメートル規模を保ちながら一直線にのびる道路跡でした。道路の両脇には側溝が備えられ、中央部分は突き固められ、きわめて計画性に富む工法で造られていたことが判明しました、側溝から出土した須恵器から少なくとも七世紀後半に造られたと考えられます。
同規模の道路跡は、東の上遺跡より南側では、東京都府中市や国分寺市等でも調査され、 東の上遺跡とつながることが確実視されています。また、東の上遺跡より北側では、市内柳野遺跡(下富)や坂戸市等で検出され、直線的な基本構造を維持して、群馬県へ向かうルートが考えられています。これらの調査結果から、奈良時代には武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)は東山道に属し、上野国(群馬県)から武蔵国府(府中市) へつながる「東山道武蔵路」は、重要な官道であるという実態が明らかになりました。遺構は埋め戻され、平成二十一年(二〇〇九)四月に市の指定文化財(史跡)に指定されました。
東山道の遺構は他でも見たことがある気がする。
旧吾妻尋常高等小学校校門
坂の下から石柱が見えた。
これは、確認しに行かなければ。
坂道を上っていく。
それは、南陵中学校の校庭のテニスコートの脇にあった。
この校門は、大正元年、西暦1912年に荒幡出身の寄付者、岸氏によって御影石が寄付され、校札を当時の村長、富沢繁太郎氏が揮毫したと伝えられている。
校札というとこのような木の板に校名が書かれていたんだろうね。「吾妻尋常高等小学校」だけにしておいてほしかった。
校名が御影石に刻まれていれば、今もそれが見れたかもしれない。
正面が見れないので、正確な碑銘はわからないが、「鹿島先生謝恩碑」としておこう。
これも吾妻村時代のもので、昭和12年5月に建立された。
これについて書かれているものは見当たらないので、碑文を書き起こそうと思ったが、断念。
吾妻村の歴史
1891年(明治24年)6月1日
荒幡組合村内の荒幡村・久米村・北秋津村が合併し、吾妻村となる。
1900年(明治33年)
久米に吾妻村尋常小学校を開校。(現在の南陵中学校敷地内)
1943年(昭和18年)4月1日
所沢町・小手指村・富岡村・山口村・松井村と合併し、改めて所沢町が発足。同日吾妻村廃止。
1950年(昭和25年)11月3日
所沢町が市制施行して所沢市となる。
1953年(昭和28年)
吾妻小学校が南小学校と改称し、現在の位置に移転。吾妻中学校(南陵中)が独立校舎となる
吾妻の由来
昔このあたりの領主であった久米但馬守の邸をある時期「久米郷吾妻庄」とよび、その邸があった現在の南陵中グランドの南側一帯を「あずま」とよんでいる。
木製電柱
角に立っていた。
上部
キリスト看板が貼られていた。
木製電柱とキリスト看板のコラボは超レア。
逆光でほとんど見えないのが残念。
所沢市の境界石
珍しくはないかもしれないが、でも気になったものは載せる。
特に文字の形が気に入ってしもうた。