三鷹市にある鷹場標石は下記の記事で紹介したことがあった。
西東京市の文化財を調べていたところ、西東京市にもあることが分かった。
こういうのがあると知れば、普通行きたくなるよね。
ストビューでは、はっきりと場所を確認できなかったが、大体の場所は分かっていた。
しかし、現地周辺に着いたのだが、見つからない。
しばらくウロウロしてしまった。
発見日 2024年8月23日
目的のものはゴルフセンターの植え込みの中にあった。
わかりにくか~。
以前は数百メートル離れた民家の庭にあったそうだが、そこが開発されることになり、ここに移設されたそうだ。
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ピントが合っていない、少しぼけてしまった。
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石製尾張藩鷹場標杭
江戸時代の多摩・新座・入間郡、百八十五か村に、尾張藩徳川家の鷹場が設けられ、上保谷村はその東南の隅に位置していました。享保二年(一七一七)以後、鷹場をかこんで境界線に八十三本の石杭が立てられ、そのうち上保谷村の村境には、九本の御定杭がありました。幕末に鷹場は廃止され、多くの杭が廃棄されましたが、上保谷村では五本が保存されました。正面の銘文と記録により、小字「柳沢」・「下野谷」・「坂上」に立っていたものであることがわかります。このようなまとまった保存は、新座郡溝沼村(埼玉県志木市)の四本と上保谷村のみです。尾張藩の鷹場は、武蔵野の村むらの生産と生活に大きく影響し、農民にさまざまな負担が課せられました。この御定杭は、鷹場の歴史を表す遺物として貴重なものです。
平成四年十二月
西東京市教育委員会
2024年8月24日西東京市郷土資料館に訪問する。
そこにお鷹場の資料が展示されていた。
お鷹場
1633年(寛永10)尾張徳川家は、将軍家より江戸近郊を鷹場とすることが許され、その範 囲に東村山も含まれていました。
複雑な入り組み支配の上に、さらに尾張徳川家の支配も受け、人足を出したり、鷹狩りに不都合なことはしてはいけないなど、村の 負担は大変なものでした。
5代将軍綱吉の生類憐みの令により、いったん鷹狩りは廃止となりますが、享保年間 (1716~1736年)には再開され、幕末まで続いたのです。
鷹場の範囲
尾張徳川家の鷹場の範囲は、境に立てられた杭が目印でした。この杭を御定杭または鷹場杭などと呼び、83本立てられていました。その杭の場所を示したのがこの絵図で、1821年(文政4)に描かれたものです。
当初は場所替えもありましたが、宝暦(1751年~)以後になると、この絵図の範囲と大差なかったようです。
鷹場の禁令と生活
文字が小さくて読めないが、以下が書かれている。
猪・鹿を追い払ってはいけない
雑木林でも鳥を追い払ってはいけない
大鳥はもちろん小鳥も捕ってはいけない
案山子を立ててはいけない
大声を出したり小屋をつくってはいけない
縄張をしてはいけない
拍子木を打っていけない
餌鳥札
鷹狩りをするためには、さまざまな役職がありました。そのなかでも、鷹の生餌を捕ることは大変なことだったようで、鷹場の村々を渡り歩いて集めてい たようです。しかし、鷹場で鳥を飼ったり捕まえたりすることは、御法度などで禁じられていたので、村人と区別する必要がありました。
そのためにつくられたのが、餌鳥札です。使い方は、許されている者が常に携帯している札と、鷹場の各村に送られている札とを、照合して見分けます。
展示している餌鳥札は、各村に送られた札です。
鷹狩絵巻
他にもないかと調べていたところ、埼玉県にもあった。
狭山市の狭山市立博物館二階の常設展示室や個人宅に計4本 「従是東南尾張殿鷹場」
ちょっと調べただけでこれだけだから、もっと調べればもっと現存しているのかもしれない。
個人宅はハードルが高いが、寺院や博物館なら行きやすい。もう少し調査の上、ぼっち調査隊を編成することにしよう。