歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

保土ヶ谷宿本陣跡に残る通用門と貴重な付属物

最近神奈川県にある旧東海道をたどるのかマイブームのひとつ。

ただ、電車賃の縛りをしている(片道1,000円以内)ので、今のところ保土ヶ谷宿までとなっている。

当ブログなので、当然他の方が紹介しているものはメインとならない。

2024年10月25日、旧東海道を歩いていると、踏切付近からこの景色が見えていた。行かないわけにはいかない。

行ってみると、ここは本陣跡だった。

 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が 「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)の 子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿 における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ) が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。

保土ヶ谷宿本陣復元想像図

東海道分間延絵図に描かれた保土ヶ谷宿の本陣・脇本陣

明治の火災や関東大震災に遭い、当時から残っているのはこの門と蔵だけらしい。

この花崗岩の門も歴史を感じる。

以前は石塀だったそうだが、現在はフェンスに囲まれていて、その中に自分好みの建物が建っていた。

本陣跡の建物は以前はお住まいだったようだが、今は空家のようだ。

こちらの建物も古そうなので、保土ヶ谷宿をアピールする場所にするなどしてどうにかならないのかな?

以前は壁に設置されていたと思われる保土ヶ谷宿本陣跡

(1601~1870)
江戸時代に幕府が諸大名に参勤交代をさせため、東海道五十三次の宿場毎に本陣を置いたもの。横浜開港東京遷都の頃までありました。
1965 横浜市長 飛鳥田一雄

裏面
 父 軽部三郎の五周忌を記念して建てた
 1965.9.13 軽部吉久
 贈 横浜市南区大岡町 阿久津建設株式会社

隣の駐車場から通用門の裏側を覗いてみたところ、古い説明板が置かれていた。

慶長六年、伝馬の制がしかれ、保土ヶ谷、岩間、神戸、帷子四か町をもって保土ヶ谷宿となった。
宿駅には、本陣(将軍や諸大名の指定宿舎)、問屋(人馬の継ぎ立て、休泊のせわ、旅荷一切などを取り扱う所)、名主(町村の最高責任者で法律の施行、納税、戸籍等をつかさどる)を置く定めがあった。初代苅部清兵衛がこの諸役を命ぜられ、代々清兵衛を名のった。 苅部氏は小田原北条氏の臣苅部豊前守康則の子孫。三代吉重の室妙秀尼は樹源寺を開き、八代悦相は苅部姓と帯刀を永代許された。十代悦甫は、横浜が開港されると、町の責任者である総年寄を命ぜられ、横浜町の発展に尽くした。 十一代悦巽のとき明治三年本陣廃止、軽部姓に変えた。墓所は大仙寺にある。

昭和四十八年十一月 保土ヶ谷区役所・保土ヶ谷史跡保存会

ここまでは多分、多くの方が紹介されていると思われる。

ここからは、当ブログの真骨頂?かもしれない。

右書きの郵便新聞差入口

このタイプのものはネットでも見かけたことがない。

その下には東京放送局聴取章のプレート

自分には分かる、これが東京放送局聴取章のプレートだということが。多分だけど。

割れている板

元はくっついていたと思われる。

円と中に文字のようなものが見える。

屋号紋?

最後に今回のメインの電力プレート

これも「高島通」だった。