旧淀橋浄水場六角堂は下記の記事で紹介済である。
2024年7月22日、新宿駅から中央通りを歩いていた。
新宿住友ビルディング近くまで来ると、そういえば中に入ったことないなと思い、入ってみることにした。
そうすると奥の方に気になるものが見えた。
それは旧淀橋浄水場で使用されていた蝶型弁だった。
東京水道発祥の地
所在地 東京都新宿区西新宿2丁目6-1 新宿住友ビルディング 三角広場
首都東京、この大都市の発展のかげには、古くからその生活を支える水の確保に大変な努力がはらわれてきた。
すでに300年も前の江戸時代初期(1654年)、ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため、玉川上水 が開かれ、江戸からおおよそ50キロメートルも離れた羽村から多摩川の水が市中に引かれた。
時は変って明治となり、首都が東京に移されるや、発展する都市に不可欠な近代水道 の建設が急務となった。
そして、明治28年(1890年)、ここ旧東京府南豊島郡淀橋町に84万平方メートルの敷地を求め、玉川上水によって導かれた多摩川の水をここで沈でん・ろ過のうえ、200万人の市民に浄水を供給できるという、当時としては、画期的な規模の淀橋浄水場が建設されることとなった。
明治31年その一部が完成し、神田、日本橋地区へ給水が開始され、ここに東京の近代水道が誕生した。
以後、明治、大正、昭和と東京の歴史とともに歩み続けた淀橋浄水場は、昭和40年(1965年)東村山浄水場 にバトンを渡し、給水開始以来60数年の歴史を閉じ、その跡地は、新しい東京の象徴ともいうべき超高層ビルの街に生まれ変ることとなった。
ここに展示されているものは、内径1,000ミリメートル蝶型弁といい、かつて淀橋浄水場 で使用されていたものである。
東京は、今、この超高層ビルの街が象徴するように、ますます発展しようとしている。そして、この大都市が必要とする水も、遠くはるか200キロメートルも離れた利根川上流にまで求めている。
ここに展示された蝶型弁から、かつてここに都民の水をまかなうため、満々と水をたたえた浄水場のあったことを、想いおこしていただき、あわせて大都市における水がいかに大切なものであり、またその確保が大変困難なものであることをご認識いただければ、はなはだ幸いです。
1974.4 元東京都水道局長 元淀橋浄水場長 小林重一
他にも旧淀橋浄水場の痕跡などが高層ビル街の新宿に点在していることを知り、探してみることにした。
淀橋浄水場跡の碑
所在地 東京都新宿区西新宿1-6 新宿エルタワービル 西側の植栽
この地は、明治31年東京水道の創設時から昭和40年までの67年間 首都給水施設の中心であった淀橋浄水場の正門あとです。
浄水場の総面積は34万500平方メートルで いまは新宿中央公園と11の近代的街区に生まれかわっています。
昭和45年3月 東京都水道局
玉川上水の煉瓦アーチ
所在地 東京都渋谷区代々木3-22-1 文化学園大学前広場
玉川上水の記
かつてこの地には、玉川上水が流れていました。
玉川上水は、江戸城下の急激な発展に伴う水不足を解消するため、江戸幕府により承応3年(1654年)に、開削された人工の水路です。全長は、多摩川上流の羽村取水口から四谷大木戸に至る約43キロメートルです。
この上水は、江戸市中への飲料水の供給という本来の目的のほか、武蔵野台地の各地に分水され、飲料水、かんがい用水、水車の動力等に幅広く利用されました。
明治31年、東京の近代水道創設に伴い、杉並区和泉町から淀橋浄水場の間に新水路が開設されたため、和泉町から四谷大木戸までの下流部は導水路としての役割を終え、余水路として使用されることとなりました。その後大部分が暗渠化され、現在では公園や道路として使われています。
東京都水道局では、このゆかりの地にモニュメントを建立し、玉川上水に携わった先人の偉業を末永く後世に伝えるものです。
このモニュメントは、明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた、玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用して、ほぼ原寸大で再現したものです。
平成15年1月
東京都水道局
次のものは淀橋浄水場跡の碑の近くにあったので、合わせて紹介しよう。
都旧跡 策の井(むちのい)
所在地 東京都新宿区西新宿1-6-17 新宿エルタワーの敷地内
指定 昭和16年11月
当敷地内に存した「策の井」は江戸時代より名井として知られ、天和年間(1681~1683)に出版された戸田茂睡の「紫の一本」(むらさきのひともと)に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上られ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所であり、また、享保年間(1716~1735)に出版された「江戸砂子」(えどすなご)という本にも同主旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。
平成元年6月 建設
東京都教育委員会
1889(明治22)年11月
高須藩江戸下屋敷の西半分の最も北側は、越後国岩船郡板屋沢村(新潟県村上市板屋沢)の庄屋加藤雄次郎の未亡人加藤俊子が夫の遺産をもって土地を買い求め、女性の職業訓練を目的とした女子独立学校を創立した。
二階建ての校舎はベンガラ塗で別荘を思わせる洒落た建物であったという。
井戸は中庭に残され、大変良質な水が湧き飲料水として利用したという。
1899(明治32)年6月
上野高崎藩(群馬県高崎市)出身の内村鑑三が校長となる。
1902(明治35)年5月
内村の後任勝田孫弥が『精華女学校』と改称
1908(明治41)年3月
『精華高等女学校』と改称
1947(昭和22)年4月
学制改革により『精華学園女子高等学校・中学校』と改称
1973(昭和48)年4月
新宿西口再開発のために千葉県市原市能満1531に移転
1975(昭和50)年4月
『東海精華女子中学校・高等学校』と改称
1977(昭和52)年12月
『東海大学精華女子中学校・高等学校』と改称
1986(昭和61)年4月
『東海大学付属望洋高等学校』と改称(男女共学)
角筈にあった精華学園時代には国民栄誉賞を受賞した歌手美空ひばり(本名加藤和枝)や文化功労者の女優吉永小百合(本名岡田小百合)が学んでいた。
精華学園の移転により朝日生命保険の本社駐車場となり、井戸は残された。しかし、水は次第に枯れていったため、ポンプでくみ上げる方式に改良された。その後、1985(昭和60)年には、新宿エルタワービルを新築するため井戸は空気抜きを設けて蓋をし、地上はビルの車寄せとなった。現在はこれに代わり、約15m南に上のモニュメントと説明板が建てられている。