2024年11月3日(日)、横浜スタジアムで行われた福岡ソフトバンクホークス戦で横浜DeNAベイスターズ11対2で勝利し、SMBC日本シリーズ2024において、横浜DeNAベイスターズは1998年以来となる26年ぶり3度目の優勝を決めた。
日本大通り側出入口を入ると説明板が並んでいる。
横浜公園の歴史
横浜公園誕生のきっかけは、幕末の1866(慶応2)年11月に横浜を襲った大火でした。開港場のおよそ三分の一を焼失した火災を受けて、幕府と諸外国との間で「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれ、大火で全焼した旧太田屋新田の港崎(みよざき)遊郭の跡地に、外国人と日本人の双方が利用できる「公けの遊園」を設置することが定められました。
公園は外国人居留地と日本人市街地を隔てる防火道路(日本大通り)と一体的に計画され、イギリス人技師ブラントン(R.H.Brrunton)による原設計をもとに、神奈川県が実施設計を担当して造営されました。1876(明治9)年2月に開園し、居留外国人と日本人の双方が利用できる公園として「彼我(ひが)公園」と呼ばれるようになりました。
その後の横浜公園は、園域全体が横浜市の管理となった明治末期、関東大震災からの復興を遂げた昭和初期、そして終戦後の接収を経て、現在の横浜スタジアムが建設された昭和50年代と、三度にわたる大きな改造を経て現在に至っています。
現在も園内には、震災復興時の遺産として、公園中央の噴水池や縦溝入りのスクラッチタイルを貼った外周の腰壁、震災時に横浜公園に避難した市民による謝恩植樹記念碑などが現存しており、2007(平成19)年2月には、日本大通り・山下公園とあわせて国の登録記念物(名勝地)となりました。
旧太田屋新田の港崎遊郭
1彼我公園の誕生
1866 (慶応2)年の約書で設置が定められた横浜公園ですが、造営に向けて動き始めるのは明治時代になってからのことで、日本の灯台建設のために イギリスから招聘された技師ブラントンに設計が委嘱されました。
ブラントンによって1871(明治4)年に作成された当初の設計案は、公園の北半分を芝生とするものでしたが、クリケット用の芝生を設けるのはイギリス偏重の計画であるとアメリカが反発したため、翌年、芝生を中央部に縮小して移した第二案が作成されました。しかし、ブラントンの計画案では費用がかかりすぎるため大蔵省の認可がおりず、1874(明治7)年、当初の4分の1という大幅に減した予算で、神奈川県が最終実施案を作成します。完成した公園は、中央部に矩形の芝生地を設け、その周辺に曲線状の樹路を配置したものでした。
外国人と日本人の双方が利用できる「彼我(ひかり)公園」として、外国人居留地と日本人市街地の境界に誕生した横浜公園ですが、当初スポーツの場として公園を利用していたのはもっぱら外国人でした。
2 市民が集う公園へ
1876(明治9)年の開園以来、公園の管理は神奈川県がおこなっていましたが、1878(明治11)年7月からは、居留外国人による横浜クリケットクラブに、公園中央のクリケット場が貸与されます。横浜公園ではクリケット以外にも、野球やフットボール、ラグビーなど様々なスポーツがおこなわれていました。
1899(明治32)年の条約改正により居留地制度が撤廃されると、同年8月からクリケット場以外の公園管理が神奈川県から横浜市へと移管され、1909(明治42)年12月には、公園全域が横浜市の管理となりました。
横浜市は宮内省技師の茂出木朝二郎に設計を委嘱して、園内の改造に着手します。中央の芝生グラウンドは花園橋寄りの公園南東隣に移されて野球場となり、市民がスポーツを楽しむ場所となりました。また日本大通り側には回遊園路をもつ日本庭園がつくられ、噴水池や藤棚、四阿などが整備されました。関内には桜が植えられ、春には多くの市民が集うようになりました。
大正時代の横浜公園
公園内に整備された野球場
横浜公園の噴水と桜
3 関東大震災からの復興
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では、多くの市民が横浜公園へと避難し、命が助かったと言われています。震災直後は公園内に罹災者住宅や仮設庁舎などが建てられていましたが、その後の震災復興事業のなかで、1928(昭和3)年から翌年にかけて、グラウンドとスタンド兼体育館、音楽堂が新たに整備されました。
グラウンドは震災前の野球場を踏襲して、公園の南東隅に5,000坪(約16,500㎡)の規模で設けられ、定員13,800人、最大19,000人を収容する鉄筋コンクリート造2階建てのスタンド兼体育館も建設されました。
このグラウンドでは、1929(昭和4)年に昭和天皇を迎えて復興記念の奉迎式が開催されたほか、1934(昭和9)年11月には、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁する全米野球チームが来日し、全日本チームとの試合がおこなわれました。
また公園の北隅には音楽堂が建てられ、定員3,400人、最大4,000人の収容人数を誇りました。
震災復興期の横浜公園
野球場スタンド
4 接収を乗り越えて
1945(昭和20)年の終戦ののち、公園内の野球場は接取を受けて米軍専用となり、大リーグの名選手の名前にちなんで「ゲーリック球場」と呼ばれるようになりました。しかし、1946(昭和21)年7月には横浜貿易復興野球大会が開かれるなど、日本人による大会も早くから開催されており、1949 (昭和24)年10月には日米親善野球大会もおこなわれています。1952(昭和27)年に接収が解除されると、ゲーリック球場は当時の平沼亮三市長によって「平和球場」と改称されました。
昭和50年代に入ると、プロ野球球団の誘致とともに新しいスタジアムの計画が進められます。公園内にあった野外音楽堂、県立武道館の施設は撤去されることになり、1978(昭和53)年3月、横浜大洋ホエールズ(当時)のホームスタジアムとして現在の横浜スタジアムが完成しました。山下町側の一角にあったアメリカ人専用のチャペルセンターもスタジアム完成後の同年6月に返還され、跡地には日本庭園が整備されます。こうして横浜公園は、昭和50年代前半にほぼ現在に近い形となり、平成20年から再整備がおこなわれ、現在の姿となっています。
接収解除された横浜公園周辺
球場の西側(写真上)にある施設は米軍のスポーツ施設フライヤージム。1958(昭和33)年に返還され、横浜公園体育館として市民利用施設となった。球場南側(写真左)を流れる派大岡川は現在では埋め立てられ、首都高速横羽線となっている。のちに横浜市庁舎が建てられる敷地はいまだ更地のままである。
横浜公園平和球場の全景
建設中の横浜スタジアム
横浜スタジアムのホームページに「横浜スタジアムの歴史」のページがある。
そこにはまだ、今回の優勝のことが書かれていない。
近いうちにそのことが書かれるのだろう。
横浜公園由来の碑
横濱公園は明治九年を以て創設せる我国最古の公園なり初は神奈川縣の所管なりしか同三十三年來横濱市の管理に帰し同四十二年に至り改造に着手し漸く整美を得たり斯くて大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たり
今次復興事業として新公園を起工するに方り裏面鐫刻の有志忽那惟次郎外諸氏は發起して特に樹栽を資け以て美化の一助に供し併せて再生謝恩の意を表せんとするや忽にして曾て避難したる人々の賛同一和を得て計畫の遂行を告げたるは今にして之か美擧たるや論を俟たす殊に幾百星霜の後斯の欝蒼繁茂の狀を觀んか必ずや回想の念の禁せさるものあるへ志仍て滋に由來を録して之を他日に傳ふと云爾
昭和四年三月
横濱市正三位勲二等有吉忠一
ブラントンと横浜
明治元年(1868年)政府の招聘により来日した英国人上木技師R・H・ブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
横浜居留地測量 1868~70
電信紋設 1869
新橋・横浜間の鉄道意見書 1869
吉田橋(鉄の橋)架設 1869
居留地 下水道整備・マカダム式通路舗装街路照明計画 1869~71
水道計画 1870
墓港計画 1870,73,74
新埋立居留地造成設計・施工 1871
中村川拡幅等設計・施工 1871
日本大通り設計・施工 1871
修技校開設 1871
横浜公園設計・施工 1871,72
横浜公園の噴水
現在の円形噴水塔は、関東大震災の復興事業として1928(昭和3)年に完成したものです。高さ約2.8mの朝顔形の噴水塔は、岡山産の万成(まんなり)花崗岩でできており、公園から港へと向かう日本大通りの 中心軸と重なるように配置されています。この噴水塔は明治時代から数えて3代目にあたり、震災以前の園内には、イギリスから輸入された三段の水盤をもつ鋳鉄製の噴水塔のほか、日本大通り側にあった日本庭園の池にも噴水が設けられていました。
設置当時の噴水塔