東海道を歩いていると原宿という町名を発見した。
東京の原宿とは違いかなり高台にあった。
この階段ではないが、急坂を下から登ってきた。
横浜は場所に寄るのかもしれないが、本当に坂が多い。
正直、探索には不向きの自治体だ。
自分は健脚を自負しているが、何度かの上り下りは流石に堪える。
でも、新たな発見があると、疲れは吹っ飛びはしないが、その興奮でしばし忘れる。
発見日 2024年11月18日
発見場所 神奈川県横浜市戸塚区原宿三丁目
②戸塚区原宿町八幡山
③横浜市戸塚区原宿町
歴史
1889年
町村制施行により深谷村・汲沢村と合併して富士見村が発足。
1915年
富士見村が俣野村・長尾村の旧小雀村域と合併して大正村が発足。
1939年
大正村が横浜市に編入された。旧大正村の村域であった、東俣野や小雀、深谷などとともに大正地区と呼ばれ、原宿はその中心に位置する。
1939年(昭和14年)4月1日
横浜市に編入。横浜市戸塚区原宿町となる。
1999年(平成11年)10月25日
住居表示の実施に伴い、小雀町、原宿町、深谷町の各一部から原宿一丁目、原宿二丁目、原宿三丁目、原宿四丁目、原宿五丁目を新設し、原宿町の残部を小雀町、戸塚町へ編入。同時に原宿町は廃止となる。
由来
原宿は戸塚宿と藤沢宿の中間の高台に設けられた間の宿であり、「原宿」の名もこれに由来する。
原宿一里塚跡
すぐ横を歩いていたのだが、見落としてしまい、反対側の歩道からこの存在に気が付いた。
江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われてます。当時は松の木が植えられていました。明治九(一八七六)年に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となったので取り払われました。
今は里程標もないが、いずこに。
以前設置されていた説明板に書かれていた文章
原宿一里塚跡
一里塚は、慶長九年(1604)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(四キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。
原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って十一里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。
戸塚区内には、品農、吉田、原宿の三か所にあったが、品農町のものは道を隔てて二基、ほぼ原型のまま当時のすがたを残しているもので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治九年(1876)十月里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地である。
昭和四十八年十一月 戸塚区役所・戸塚観光協会
原宿立場跡
立場とは宿場間が遠い場合に、また峠などの難所などに、休憩施設として茶屋などが設けられた場所です。立場が繁栄すると宿場と混同され、間の宿(あいのしゅく)と呼ばれました。 この立場は戸塚宿を出て大坂を乗り越えた場所で大山・富士の眺望を楽しめる格好の場でした。