調布市から一山超える(途中アップダウンがあり、そんな印象あり)と狛江市に着いてしまった。
着いてしまったからしょうがない。
市内を探索することにした。
幸いなことに旧町名の痕跡をいくつか発見することが出来た。
①北多磨郡狛江町覚東
発見日 2024年11月19日
発見場所 東京都狛江市東野川一丁目
②狛江町覚東
発見日 2024年11月19日
発見場所 東京都狛江市東野川一丁目
③狛江町覚東
発見日 2024年11月24日
発見場所 東京都狛江市東野川一丁目
張られていたシールが取れたようだ。
次は狛江市になってからのもの。
④狛江市覚東
発見日 2024年11月23日
発見場所 東京都狛江市西野川一丁目
覚東町会
覚東通り
狛江東野川郵便局近くの交差点から電力研究所西交差点まで住宅街を縫って走る道で1,150m。狛江村に合併する前にあった覚東村の名前から付けられた。
電柱のプレート
バス停
小足立・覚東の両地区を合わせてまとめ、小覚(こがく)と呼ぶことがあり今でも交番の名前として残っている。
みつおさ通り
小覚交番北側の松原通りとの交差点から狛江ハイタウン東交差点までの約650m。かつての地名「三長」にちなんで付けられた。
歴史
1889年4月1日
神奈川県における町村制の施行により7か村組合が廃され、和泉村・岩戸村・駒井村・小足立村・覚東村の6村が合併し、狛江村となった。
1893年4月1日
東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律が施行、同日より北多摩郡が東京府に移管され、東京府北多摩郡狛江村となった。
1952年(昭和27年)11月10日
町制が施行され、狛江町となった。
1970年(昭和45年)10月1日
市制を施行し狛江市となった。
1977年(昭和52年)8月1日
住居表示が実施され、東野川一丁目から四丁目、西野川一丁目から四丁目となり、覚東は消滅する。
狛江市内北部に位置する覚東は、地区全体が東西の二地域に分かれていた。上覚東と呼ばれていた地域は、下覚東から完全に分断され、飛び地になっていた。分断された間には小足立地区が入っていた。
現在の住所では西野川1丁目のあたりが上覚東、東野川1丁目あたりが下覚東、狛江第五小学校校と千住院のあるあたりは、中間にあたることから中覚東と呼ばれていた。
覚東の由来
『新編武蔵国風土記稿』によると「古ハ学堂村トモ書セリ」とある。覚東は古くは「学堂」と書いたとあり、近世資料にも「学堂」あるいは「学東」という表記が見られる。また、1935年(昭和10年)に刊行された「狛江村誌」には、「この地は武蔵國國學所のありし處にして學堂はその遺唱にあらざるか」と書かれており、かつて武蔵国の国学所と呼ばれる学校があったので「学堂」となったのではないかと言われている。しかし、「何時ごろより覺東村となりしや不詳なり」とあり、学堂がいつ覚東になったかは分かっていない。