歩・探・見・感

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東村山市の野火止用水沿いに残る陸軍境界標石

東村山市ふるさと歴史館に展示されていた陸軍少年通信兵学校関連の資料

左下に陸軍境界標石の写真があり、市内に境界標石が4本現存しているらしいことを知り、探してみることにした。

撮影日 真夏の2024年8月24日
    真冬の2025年1月4日

東村山市立東村山第一中学校

東村山市指定旧跡 東京陸軍少年通信兵学

所在地 東村山市富士見町一・二丁目

指 定 平成二三年(二〇一一) 二月四日指定第三四号

東京陸軍少年通信兵学校は一四歳から一八歳位までの少年を対象とした通信兵養成学校で、昭和一七年(一九四二)から昭和二〇年の終戦まで、富士見町一・二丁目周辺にありました。昭和八年、東京市杉並区馬橋(杉並区)の陸軍通信学校内に生徒隊が設けられて少年通信兵が誕生、その後学校は神奈川県大野村(相模原市)に移りました。昭和一七年、生徒隊を昇格させて陸軍少年通信兵学校が創設され、同年一〇月二三日、東村山町(東村山市)に移転しました。昭和一八年、村松陸軍少年通信兵学校(新潟県五泉市)の創設により東京陸軍少年通信兵学校と改称、昭和二〇年には特別幹部候補生も受け入れました。全国から入校した少年たちはモールス通信等の訓練と生活を共にし、戦地に赴きました。戦後、建物は引揚者住宅や東村山中学校(市立第一中学校)校舎等として、給水塔等の施設は東村山町最初の上水道事業施設として利用されました。 以上のように、市内に大きな軍事施設が存在し、戦後も有効利用されたことと、多くの少年通信兵学校関係者が戦死した歴史的事実を後世に伝え、 世界恒久平和を祈るために、 東京陸軍少年通信兵学校跡地が、旧跡として市文化財に指定されました。

平成二三年(二〇一二)三月

東村山市教育委員会

東京陸軍少年通信兵学校の見取図
1944年頃(第十一期,十二期生在校時) 



観光案内図(部分)

野火止用水沿いの小平グリーンロードを右から左へ辿っていくことにするが、順序が違っているかもしれない。

東村山市ふるさと歴史館に展示されていた写真にない境界標石と思われるものも念のため撮ってある。しかし、それらは直接確認できないので、境界標石と違う可能性がある。

東京陸軍少年通信兵学校正門跡

さあ、この第二富士見橋から撮った風景を交えて紹介していくことにしよう。

用水に紅白の鯉が泳いでいた。



①ほとんど埋まっているもの。



②横倒しになっているもの



③竹林の隙間から見えたもの。

写真ではわかりにくいが、陸軍の文字が見えたので、これは間違いなさそう。

④金網越しに見えるそれらしきもの



橋上からの用水を見る。

幅が細いね。

中宿橋を渡って、橋の先にある陸軍境界標石を探す。



木製電柱を利用した橋があった。

個人で作った橋のようだ。

壊れているので、渡らない方がいいだろう。

陸軍の文字が見える。


陸軍の文字が見える。

⑦東端にあるもの

今回の調査で発見した7本中何本が陸軍境界標石なのかは、今後の東村山市の調査を待ちたい。

最後に野火止用水についても触れておこう。

承応4年(1655)、老中松平伊豆守信網が、玉川上水開削の功績により玉川上水の 水を自己の領地内に引く許可を得て開いたもので「伊豆殿堀」とも言います。
市内中島町西端の取入口からの水は、九道の辻を通って野火止に至り、大和田、志木地方の稲田を潤し、新河岸川の樋(いろは樋)を渡って宗岡村(現埼玉県志木市)に達していました。
この用水が開通した明暦のころは、この用水沿いには50数戸の農民が居住しているに過ぎませんでしたが、その後移り住むものが増加し、明治初期には1,500戸がこの用水を飲料水にしていたといわれます。