上流側に書かれていた橋名

校前橋?
下流側に書かれていた橋名

分校の後の文字がそれぞれ一部消えている。
消え方がおかしいので、誰かが消したのかな。
両方見ると分校前橋という橋の名前であることが分ってしまうが、こちらはナゾトレになりそう。
2019年2月以降に設置されたと思われる(ストビュで確認)新しい橋名板。

これなら、文字が消えてしまう、消されてしまうことはないだろう。
分校前橋が架設されたのは、1927年(昭和2年)、東村山市で管理している橋梁101橋の中でも、架設年が分かっている中では、最も古い橋のひとつのようだ。
分校という名称に興味をひかれた。
橋名の由来が書かれたものはないようだが、近くに回田小学校があるので、沿革を調べてみた。


明治初年 第一大学区神奈川県管内第八中学校区多摩郡
回田村第135番小学暗明学舎と称した。
明治9年 暗明学舎を回田学校と改称。
明治27年 4月 東京府に編入される。
明治41年11月 東村山村立化成小学校第三分教場として校舎新築。
昭和35年 4月 東村山町立回田小学校として独立。
ということのようなので、回田小学校の分校時代である化成小学校時代に架設されたので、この名称になったのかもしれない。
次は廻田と回田
どうして違う?
東村山市のホームページに「廻田町の由来」が書かれていた。
『道興准后の記した「廻国雑記」によると、廻田に古くから暮らしていた人々は、その居を狭山丘陵の山あいに定め、丘陵をとりかこむような形で開拓していきました。 そのため、隣村と行き来するためには、田から田をめぐっていたそうです。そうしたことから、「めぐ(回)った(田)の先の村」 という言葉が生まれ、回田ともかかれた(旧字)この地域でしたが、 昭和39年の町名・字区域調整の町名設定のとき、「廻田町」となりました。この昭和39年の町名設定より以前にできたもの、たとえば回田小学校(昭和35年)は旧字の漢字のままその歴史を今に伝えています。』
"回田"が旧字だとは、意外であった。
さらに調べていると小平市に「回田町」があることが分かった。
こちらの由来は、Wikiによると
『新田(当時は畑)の開発の段階で、廻り田村(東村山)に売り渡されたことに由来する。享保 9年(1724)小平の「野中新田」という新田開発として町人請負型かつ、広大な開発面積で開発が進められたが、許可された面積513町歩を12人で分けたが開発仲間の中には、開発せずに廻り田村(東村山)などに売り渡し帰村している。 享保11年(1726)野中新田の採草地を東村山廻り田村から土地を購入し、廻り田(回田)新田が成立。明治22年(1889)小川新田・鈴木新田・回田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・大沼田新田・小川村と久米川の飛び地が合わさり小平村となった。』
とのこと。
調べていると芋づる式に増えていくが、今回はここまでにしておこう。
撮影日 2025年1月4日
撮影場所 東村山市廻田町