1回目のチャレンジで見つからなかったので、消滅したものと思っていたが、あきらめきれず、家に帰ってから、ストビューで探していたら、まだ探していなかった怪しい場所があり、行ってみると、思ったところにあった。
残っていてよかった!
とあるお宅の勝手口に奇跡的に残っている角蓋。


劣化しており、分かりにくいが、中央に「阿」の字、周囲に「本郷西片町」とある。

ここ西片には江戸時代中期~後期、備後福山藩・阿部家の中屋敷があり、その中屋敷を、明治から昭和初期にかけて、阿部家自らが住宅地として開発し、昭和初期に敷設した時の下水の蓋だそうだ。
今年令和7年は昭和100年になるので、約100年近く前のものとなる。
同様のマンホール蓋は、誠之小学校の史料館や文京ふるさと歴史館にも保存されているらしい。
ここからは阿部家ゆかりの場所を訪ねて行くことにいこう。
備後国福山藩主阿部家江戸屋敷(丸山屋敷)跡

阿部家は三河以来の徳川譜代大名家で、歴代藩主からは幕府老中など幕閣をつとめた人物が多く出た。なかでも11代阿部正弘は老中首座としてペリー来航に対応し、日米和親条約をはじめとする開国条約の締結を進めるなど、幕末の政治史に大きな足跡を残した。
西片一丁目・二丁目の大部分は江戸時代を通じて阿部家の屋敷(丸山屋敷)であった。明治に入り、阿部家は旧丸山屋敷の南側を本邸とし、それより北側は近代的なまちづくりを行った。
1875年に福山藩の藩校、誠之館の名に由来する誠之学校(現区立誠之小学校)が生まれ、1891年には阿部家本邸が新築され、広場(現西片公園)ができた。
また、、その前年には上京勉学を志す旧福山藩子弟の育成寄宿舎として誠之舎が創設され、現在に継承されている。当地は旧帝国大学(現東京大学)が近いことから、明治期から学者や文人が多く住み学者町とも呼ばれてきた。これは、阿部家の教育・文化への理念にも基づくもので、現在も町の雰囲気として受け継がれている。


階段の壁に敷石?が立て掛けられていた。

株式会社誠之社

不動産関連の会社のようだが、阿部家が関係している会社なのだろうか?
西片公園





文京区立西片公園の「大椎樹(おおしいのき)」
みなさんは、この大きな石のおもてに書いてある字がよめますか。
これは「大椎樹(おおしいのき)」とよみます。
むかしこの石のうしろには、四百年もいきていたといわれる、写真のような大きなシイの木がありました。(この石の近くにある木もシイの木です)
写真の木は、江戸時代にこの西片公園のまわりが、阿部伊勢守というお殿様(今の広島県の東部を領地としていた大名)の屋敷だったので、「阿部の大椎樹」と呼ばれていました。そのころは、水道橋の近くからも見えたそうです。ところが大正二年に大風にあってから弱りはじめ、昭和三十三年にはついに枯れてあぶなくなったので、とうとう切りたおすことになりました。
昭和十五年に「大椎樹」のあとつぎの木として、西片町会のみなさんによって植えられ、「世継ぎの巻」とよばれていた権の木も、時を経て、植え替えることになりました。
みなさんも「世継ぎの椎」を植えた人々の町の歴史への思いとともに、新しく植えらた椎の木をはじめ、西片公園や地域の緑を大切にしてあげてください。
〔石碑裏面の文〕
樹高五丈周圍二丈盖四百年外之物昔時當奧
州街道爲里候之目標枝幹擎天欝葱至椎今矣
寔爲都下之名木人呼日阿部之大椎樹大正四
季十一月東京府爲即位記念興史蹟名勝天然
物保存事業此樹亦預其選焉因錄其梗概云爾
大正四年十二月九日建
令和三年十月
文京区
西片1-10の角にあるマテバ椎。

1891年(明治24年)に新築された阿部伯爵邸の表門は現在の公園西端の向かい辺りにあり、その表門と大玄関との間の車寄せ付近には大きなマテバ椎の木が繁っていたそうだが、その子孫が現在のものらしい。
西片1の石坂沿いにある塀の下半部は、隣の阿部家の石垣とともに、明治24年完成の阿部伯爵邸の石垣がそのまま残っているものらしい。


これがそうなのかは確信が持てない。
阿部通り

福山坂を上った先の十字路に「阿部通り」「公園通り」と記した新しい標識が2020年末に設置されたそうだ。

誠之通り

電信柱


ここにも阿部の名前が残っていた。
撮影日 2025年2月10、15日
撮影場所 東京都文京区西片