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新宿公園と太宗寺で発見した旧町名の痕跡

新宿公園

開園は1955年(昭和30年)だが、全面的な改修が行われて2015年(平成27年)4月にリニューアルオープンした。

ここに「區政功労者諸霊之碑」があった。

裏面が見えないので、いつ頃建てられたのは不明。

ネット上でも、書かれているものは見つからず。

上部に「四谷區」と刻まれていた。



内藤新宿太宗寺の文化財

太宗寺は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。
 かつての内藤新宿仲町に位置し「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像・奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅像地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。
 ミニ博物館「内藤新宿太宗寺の文化財」では、太宗寺に伝えらる文化財や、内藤新宿の歴史などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。
 ※寺務所にて、解説パンフレットを配布しています。

新宿ミニ博物館

甲州道中と内藤新宿
内藤新宿の開設

 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道東海道・中仙道・奥州道中日光道中甲州道中)の整備を行いました。
 甲州道中(甲州街道)は、慶長9年(1604)頃に整備が行われたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
 この街道の最初の宿場は高井戸(杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現元浅草4丁目)に住む名主喜兵衛(後の高松喜六)は、元禄10年(1698)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。
 この辺りには、文禄3年(1595)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596)頃に太宗寺が創建され、元和2年(1615)頃には四谷大木戸(現四谷四丁目交差点)も開設さ
れました。また寛永2年(1625)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661~72)には「内藤宿」と呼ばれかなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。
 さて、この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本朝倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。
 こうして「内藤宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました
(高松家の墓は愛染院〔新宿区若葉2-8〕にあり、区指定史跡に指定されている)。

宿場の様子
 「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷四丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
 宿場は大きく三つに分かれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町に当り、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、後には共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。
 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。
 これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地
「子供合埋碑」が、成覚寺〔新宿2-15-18〕にあり、区指定有形文化財に指定されている)。

宿場の廃止と明和の立返り
 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
 その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。

② 太宗寺の創建と内藤家

 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。
 これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
 内藤家は7代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 太宗寺は、元禄15年(1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してき
ました。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
 現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りと共に閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
 なお、寺号「太宗寺」は、壮建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は、内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。
 浄土院の寺院です。

③ 太宗寺の文化財

 太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像・奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)、切支丹灯籠(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますがこのほかにもつぎのような文化財があります。

●太宗寺の曼荼羅
 曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた描いた図像をいいます。
 太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経無量寿経阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15・16日に本堂
で公開されています。

観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅
〔新宿区指定有形文化財(絵画) 指定年月日 平成2年6月1日〕
 通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。
 紙に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(描表装)です。
 製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。

東京都指定有形文化財 銅造地蔵菩薩坐像

台座などに旧町名が刻まれている。



説明板①

江戸時代の前期に、江戸に出入口六ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつです。銅造で像高は二六七cm、正徳二年(一七一二)九月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
江戸六地蔵」は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は七万二千名以上におよんでいました。
この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。
品川寺 品川区南品川三-五-一七  宝永五年(一七〇八)造立
東禅寺 台東区東浅草二-一二-一三 宝永七年(一七一〇)造立
真性寺 豊島区巣鴨三-二一-二一  正徳四年(一七一四)造立
霊巌寺 江東区白河一-三-三二   享保二年(一七一七)造立
永代寺 江東区富岡一-一五-一   享保五年(一七二〇)造立

東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。
東京都教育委員会

説明板②

江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七〇六)建立の願を発し、人々浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各象の全身及び蓮座には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田南鍋町鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五軀が残っています。
六地蔵のうち、真性寺の地蔵は第四番目で、正徳四年(一七一四)に建立されました。平成二十〜二二年度(二〇〇八〜一〇)の修理の際に胎内から銅造地蔵像四軀と銅札等が多数発見されました。それらは修理完了後に再び軀内に戻され、大切に保存されています。像高は、二六八cmあり、かつては鍍金が施されていました。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

平成二十三年三月 建設
東京都教育委員会

閻魔堂

玉垣に旧町名が刻まれている。

渋谷区原宿

三光町

東京市中野区上高田

淀橋区角筈

秋田県阿仁合

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行により北秋田郡阿仁銀山町、小様村、小淵村、水無村、吉田村と一ノ又鉱山、二ノ又鉱山、三枚鉱山、小沢鉱山、萱草鉱山が合併し、阿仁銅山村(あにどうざんむら)が発足。

1897年(明治30年)1月21日
町制施行し名称を阿仁合町に改称。

1955年(昭和30年)4月1日
北秋田郡大阿仁村と合併し阿仁町を設置して消滅。

愛知県額田郡岩津町


1906年明治39年)5月1日
岩津村、大樹寺村、奥殿村、細川村が合併し、岩津村となる。

1928年(昭和3年)5月1日
町制施行し、岩津町となる。

1955年(昭和30年)2月1日
岡崎市編入される。

三丁目 カフェー中?