不忍通りを歩いていたら、「伊豆栄 不忍亭」の前の歩道に小さな蓋があるのに気が付いた。


この道は何回も歩いているが、初めて気が付いた。
今まではあまり下にあるものを見ることはなかったが、探蓋師(マンホーラー、マンホロジスト、マンホリスト、鉄蓋愛好家、鉄蓋ファン、蓋趣味人とも言うらしい)のまねごともするようになったので、気が付くことが出来た。
「下谷池仲」の文字

「下谷池仲」?
"池仲"は何の略だろう?
その答えはすぐ近くにあった。
旧町名由来案内

本町は、寛永五年(一六二八)に寛永寺門前町として起立した。町名の池之端については、不忍池のほとりにあることから付けられたが、仲町についての由来は不詳である。
町内に、吹貫横丁という不忍池の南側から本町を南北に縦断した道があった。池面を渡る北風が吹貫けたのでこの名があるという。吹貫横丁を境にして、東側を東仲町、西側を西仲町と俗に称していたようだ。
また、本町は商人町として古くから発達してきた。錦絵、竹作工、筆墨硯、袋物、茶をはじめとする店が立ち並び大変賑わっていた。中でも「錦袋園」(きんたいえん)と称する薬を追っていた薬屋は有名であった。これらの店が並ぶ道は、江戸時代から明治年間まで、上野と本郷を結ぶ道として賑わった。現在は、池之端仲町通りという。
明治五年(一八七二)、本町は福成寺を合併し町域を広げ、昭和三十九年(一九六四)の住居表示の実施で、西側一部が池之端一丁目になり、残りの大部分が上野二丁目となった。
旧町名区域図


旧町名位置図

「きもの 池之端藤井」の店先にあった口上

「池之端仲町ーいけのはたなかちょうーといえば、小じんまりとした店構えながら一流の高級品をあつかう商舗がならんでおり」などと、いま、テレビに芝居に大人気の、池波正太郎ベストセラー<鬼平犯科帳>シリーズの随所に登場するのが、ここの通りです。
江戸は寛永五年といえば一六二九年ーいまを去ること実に三百六十四 年前に通りの名称が公式に定まりました。
当時参勤交代の武士達が、故郷への土産を誂えにやって参ったほどの、世に名を知られた店が軒を連ねていたと言い、今でもその頃からの老舗が商いを続けております。
ご覧の如く東西に長い長いこの通りは、色々な町会で成り名っていますが、町民達は唯一つ、由緒ある〈池之端仲町通り〉の名を共通の寄りどころとして心に守り続けてきたのです。
いま、その名をふたたびこの通りにーという気運が町びとの間に高まってきました。
皆様の御声援をお願い申し上げます。 謹白
一九九三年一二月
〈池之端仲町通りの会>
この口上が書かれたのが、30年以上も前のこと。江戸時代から続く老舗も点在するが、「キャバクラ通り」とも言われているらしく、暗くなってからは通りたくないね。
しのばず和めぐり

小川眼科病院として建設。鉄筋コンクリート造,地上3階地下1階建で,正面1階の鉄平石張,尖頭アーチ窓やコンクリート製幌状の庇など表現派風意匠に特徴がある。
撮影日 2025年3月1、2日

