歩・探・見・感

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中野の犬屋敷跡 中野区役所と一緒にお引越していたワン

2025年3月20日、杉並区内探索後、高円寺駅から帰ろうと思ったが、中野駅も近かったので、中野の犬屋敷跡が移転したという情報を思い出し、再開発中の所なんか見たくもなかったが、久しぶりに中野駅方面へ向かうことにした。

駅付近にあった案内図を見ると、その一部にシールが貼られていたワン。

犬のブロンズ彫像と書かれているワン。

そこに行くんだワン。

中野区役所が随分前に移転していたワン。

知らなかったワン

旧中野区役所



新中野区役所

立派になっていたワン

中野の犬屋敷跡

移転前



移転後

少し狭くなった気がするワン

区役所のガラスに映る夕焼けを見るワン。


犬屋敷は、五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設で、犬を囲って飼育したことから「お囲い御用屋敷」ともいいました。中野四丁日あたりの旧町名「囲町」はこれに由来します。
綱吉は「生類憐みの令」によって殺生を禁じ、特に犬の保護策を強行して、江戸郊外の中野に最も大規模な犬屋敷を造らせ、支配役以下多数の役人や医者を置いて、野犬の飼育にあたらせました。
犬屋敷は元禄八年(一六九五)末に収容を開始し、綱吉の死去により宝永六年(一七○九)に廃止されるまで、十五年間存続しました。敷地は現在の区役所を中心にJR中央線をはさんで約三十万坪(百ヘクタール)に及び、五つのお囲には、各数百棟の犬小屋・餌場・日除場・子犬養育場があって、最盛期には十万頭以上、飼育費は年額九万八千両以上に達しました。その後、幕府は方針を変えて、めす犬の収容を主体とし、他は近在の農家に養育料をつけて頂けることにしました。犬屋敷の莫大な費用は、 江戸の商家や天領の農民たちの負担で賄われました。

平成二十六年二月

中野区教育委員会

近くに史跡碑があったワン。

でも、老眼の自分には全然読めなかったワン

古来中野の地は武蔵野の中央に位する意と新編武蔵風土記稿に述べられ、應永年間(1400年)に紀州の人鈴木九郎正蓮がこの地を拓き、文明九年(1477年)四月には大田道灌が江古田原に豊島氏と戦い、これを破って江戸築城の基を開いた。永禄年間(1560年)の小田原衆所領役帳には、中野内正歓寺、阿佐ヶ谷、大場などの地名があり、本郷・雑色・江古田等を包含した今日の中野区の先駆が既に見られる。この地は江戸初期より将軍・大名の鷹狩の地として著名であり、元禄八年(1695年)には五代将軍綱吉が「生類憐み令」を出して犬小屋を設け多数の犬を飼育し、次いで享保二十年(1736年)八代将軍吉宗は、この地の景勝を賞して桃園を経営せしめ、御立場、大名山等を設けて江戸士民遊歩の處とした。降って明治二十九年(1896年)に中野電信隊、気球隊が創設され、次いで陸軍中野学校が設置せられた。特に電信隊は永く存して我国電信技術の発達に貢献する処大であった。昭和二十年八月十五日(1945年)第二次世界大戦終結に伴い、一時進駐軍の駐留するところとなり、これが撤収の後、警察大学校の設立ありたるもその後この地は中野区発展の要衝とすべしとの衆議に応え、同校の移転跡地のうち、その一部は庁舎建設用地にして中野区有地となし、昭和四十三年十月五日(1968年)本庁舎落成とともに、中野区政中核の地に定められた。