牧野記念庭園の常設展示室に展示されていた年賀状。

中央下に顔写真、その周りに似顔絵、植物図、歌が書かれている。
ここに書かれている内容を書き起こししてみた。
恭賀新禧
昭和十一年丙子元旦
元日口占
あんた芽出たい
わたしもさうよ
ともに迎へる御代の春
あちの本こちの草の根
齧らんと
歯を研ぎすます
ひのえ子の年
結網子
ねずみのを
鼠の尾 長いものには巻かれろカ、イヤ反対に巻いてやればよいワ
ねずみもち
鼠もち ハハア鼠が持つというのカ、鼠矢(クソ)などと言うなヨ〇〇が〇りいヤ
※
丙子:ひのえね
口占:その場で口ずさんで作った詩
結網子(けつもうし):牧野博士の号
住所が「東京市板橋區東大泉町」

現在は練馬区だが、当時は板橋区だった。
こちらのはがきの住所は「東京都板橋區東大泉町」となっている。

消印は昭和19年(1944年)10月19日になっている。
東京市から東京都になったのは、昭和18年(1943年)7月1日。
そして、練馬区が板橋区から独立したのが昭和22年(1947年)8月1日のこと。
これらのはがきから時代の移り変わりを感じる。
津田弘氏については、下記のパネルで説明されている。
繇絛書屋を守った津田弘

(中央)
牧野富太郎の「繇絛書屋」を雨風から守ってきた鞘堂⋆は、 富太郎を慕う津田弘氏の尽力によって建てられました。
富太郎亡きあと、書屋にあった数々の遺品が寄贈されたのち、老朽化した書斎と書庫を取り壊すというニュースを知った彼は 「植物学を志す者にとって心の拠り所となる博士の研究の場をぜひとも残したい」と何度も上京し、東京都や練馬区に懇請します。
「費用は私が持つ」という津田氏の篤い志と、それに心動かされた富太郎を慕う人たちの想いにより、取り壊される運命にあった 「繇絛書屋」は、今もここで守られています。
⋆鞘堂:本来の建物を保護するため、覆うように建てられた建物。 コンクリート製のこの鞘堂は昭和37(1962) 年に完成しその4月、ここで牧野富太郎の生誕百年記念会が行われた。
(右)
津田氏に宛てた牧野富太郎の葉書
(1944年10月19日消印)
東北大学の植物学科に入学することになった津田氏に祝いの言葉を述べ健康に気をつけ勉学に動しみ、よい成績で卒業するよう励ましている。
(左)
完成した鞘堂の前で
津田弘氏(中央)・富太郎の次女鶴代・秋山次三郎氏(庭園の運営に貢献)
津田弘(1925-1989)
旧制中学校時代に読んだ伝記で牧野富太郎を知り、その生き方に感銘した津田氏は植物学の道に進もうと決心する。富太郎の勧めで東北帝国大学に入学するも、 太平洋戦争の空襲で廃墟となると、出身地の名古屋大学に移籍し卒業。その後、 ヒマラヤ製菓株式会社を創業する。1984年、標本館建設のため東北大学に3億円を寄付。1987年4月24日、生涯尊敬し続けた富太郎の誕生日に、東北大学植物園 「津田記念館」が開館。館内には津田氏を顕彰する展示がある。