歩・探・見・感

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深川區時代に建立された皇太子殿下御降誕記念国旗掲揚塔  in 東京都江東区東陽一丁目

正面

皇太子殿下御降誕記念

 皇太子殿下明仁親王(現上皇)の御降誕(昭和8年12月23日)を記念して建立されたもの。

"誕"の字が読めなかった。

「降誕=こうたん・ごうたん」とは、一般的にはほとんど使われないが、聖人や皇族などの出生を意味する言葉で、「誕生」と同じ意味。

左下にも刻字されているのだが、解読できず。

左側面

昭和九年十二月吉日

"和"の字がおかしい。

調べてみたら、"和"の旧字体"咊"だった。

洲崎三業組合

1887年(明治20年)までに富坂(現・文京区)に東京帝国大学校舎が新築される計画が策定されたため、風紀上の観点から直近に存在した根津遊廓の移転計画が発足。しかし最大の歓楽街だった吉原に受け入れの余裕がなく、1886年明治19年)6月に洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽一丁目に洲崎弁天町が誕生した。1888年深川洲崎遊廓の開業式が挙行された。大正時代末期には300件前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街(吉原の『北国』(ほっこく)と同様に、『辰巳』(たつみ)の異名を持つほど)に発展した。

1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で洲崎はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅した。

第二次世界大戦終結後から半年で洲崎遊廓は、大門通りより東半分(洲崎弁天町二丁目)に「洲崎パラダイス」の愛称で復興した。その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇った。

1958年(昭和33年)4月1日に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。

深川區分會第十一班。

まだ江東区が深川區だった頃に建立されたものと分かる。

調べていると、東陽一丁目には、まだ興味がそそられるものがいくつかあり、再訪して見たくなった。