歩・探・見・感

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大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園にある復元された里程標、石柱・門柱・碑石

蒲田駅に向かう途中、第一京浜に出ると、反対側に石柱が立っているのが見えた。たぶん、今まで訪れたことはないはず。

行ってみることにした。

それは"明治天皇行幸所蒲田梅屋敷"と刻まれている石柱だった。

明治天皇と梅屋敷
 梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
 天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後昭和八年(一九三三)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。 

少し変わった形をした門柱も気になるところである。

大田区体育館と刻まれている。


大田区総合体育館は梅屋敷公園の向かいにある。これらの門柱は旧大田区体育館から移設されたものなのかもしれない。

他にも興味を引くものがいくつかあった。

復元された里程標

昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。
その高さは1メートルほどでその表面には、
 距日本橋三里十八丁 蒲田村
           山本屋
と刻されていたと伝えれています。
木戸孝允伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが、資料をもとに復元しました。

梅屋敷の由来

梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(一八一八~一八二九)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。
当時は後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩の休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、とくに梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。

梅屋敷と和中散売薬所跡

「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(一六八八~一七一六)大森中原、谷戸、南原に三店が開業した。
 このうち南原にあった店が、後に北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
 文政年間(一八一八~一八三〇)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に桜の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
 亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
昭和五十年三月十九日指定
大田区教育委員会

狂歌堂真顔の歌碑(復元)

昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。
 文面は、

 旅人の神に手向の幤代や
    白絹咲きし庭中の梅
         狂歌堂真顔

 であったと伝えられています。

山本久蔵の句碑

 この句碑は、天保五年(一八三四)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は

神酒ささぐ間に鶯の初音かな

         麦住亭梅久

とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。

梅路、梅志の句碑

 この句碑は弘化三年(一八四六)山本久蔵が梅路と号し、建立したものといわれています。

しら梅の 梢や月の高みくら
        七十五歳 梅路

松竹は表にうらハ梅の春
        六十五歳 梅志

  弘化三のとしきく月  梅家女誌

 また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。

南側にも木戸のような造りの入口があった。



今度は梅が咲いている時に訪れてみよう。

掲示板で蒲田図書館で『蒲田のむかしといま』展が開催されていることを知ったのだが、行くと梅屋敷についての資料が展示されていた。

梅屋敷の変遷
・文政年間(一八一八一一八二九)
  山本久三郎が休み茶屋を開設
明治元年(一八六八)
  明治天皇が東京行幸に際し休息する
  その後、在位中九度行幸
・明治二〇年(一八八七)ごろ
  梅の名所として多くの人で賑わう
・明治二三年(一八八九)
  東海道線全通
  東海道の旅人の往来が少なくなり、すこしずつさびれていく
・ 大正七年(一九一八)
  京浜国道の拡張工事により梅屋敷東側が大幅に削られる
大正九年(一九二〇)
  京浜急行線の建設で西側が削られる
・大正一二年(一〇二三)九月
  関東大震災で多くの避難民が邸内に入り、荒廃していく
・大正一五年(一九二六)
  地元有志による「明治天皇蒲田御遺跡保存会」が設立
  一部を買収し整備が始まる
・昭和二年(一九二七)ごろ
  ほぼ現在の敷地規模一三三四坪を買い取り、
  転園修理、建物修復を行う
・昭和一三年(一九三八)
  「明治天皇蒲田御遺跡保存会」から東京市へ移管される
・昭和一四年(一九三九)
  東京市立成績蒲田梅屋敷公園が開園
・昭和二〇年(一九四五)四月十五日
  城南大空襲により、園内建物が焼失
・昭和二八年(一九五三)
  大田区に移管

大田区に移管後の梅屋敷公園

先に、門柱が旧大田区体育館から移設されたものかもしれないと書いたが、この写真を見ると、同じものがすでにある。

調べてみると、園内に「梅屋敷体育館」が建設され、1955年(昭和30年)に開館したそうだ。1965年(昭和40年)、「第一京浜」を挟んで向かい側に「大田区体育館」を開館したため、「梅屋敷体育館」はその後閉館となったそう。その「大田区体育館」も老朽化のため建て替えられ、2012年(平成24年)に「大田区総合体育館」が開館したとのこと。
当初、門柱には「梅屋敷体育館」とあったのだろうか?
大田区体育館」が建て替えられたので銘だけ移設したのだろうか?
気になるので、調べてみたが、情報は見つからなかった。

現在の"明治天皇行幸所蒲田梅屋敷"の石柱は新しく見えるが、この写真の石柱は古いものに見える。調べてみたところ、この写真のものは1935年(昭和10年)3月に建設されたもので、現在の石柱は理由は不明だが、平成になってから再建されたものだということが分かった。