2025年9月7日(日)、北浦和駅を降りると、制服姿の女子高生たちが何組も浦高通りを歩いているのが目に入った。
何かあるのか?
浦高祭だった。

そういえばいつだったか駅前でビラを配っていたね。
校門前

2025年は浦高創立130周年の記念すべき年。
第78回の今年のモチーフはメキシコの「サン・ミゲル教区教会」だそうだ。

19世紀に建造され、2008年に世界文化遺産に登録された建築物。
メインテーマは「Men’s Festival Forever~万国の一夜 銀杏樹の下に集え~」とのこと。
門にいくつか見所があった。
・てっぺんの校章

・校章の形をかたどったマークと銀杏

・人形

・文字が隠されていた。

上の写真だとわかりにくいが、「浦高祭 Welcome」、「THNKU 4 COMING」とある。
麗和会館資料展示室公開中の看板が目に入った。

麗和会館

2階の展示室入口

浦中浦高創立九十周年事業の一環として、同窓会の総意にもとづき、ここに麗和会館の落成をみました。その記念すべき節目に、母校の九十余年にわたる輝かしい歴史を、年表と関係資料で綴りながら、併せて卒業生諸兄の業績の顕彰も意図して、新しい館の象徴ともいえる展示資料室を開設いたしました。
内容および構成については、学校所有の資料を中心に、卒業生からの寄贈品または貸与品の中から、学校と同窓会で組織する展示資料委員会で検討し、決定しました。展示は、常設・公開を原則とし、さらに資料等の充実をはかりながら、所期の目的に添える内容にしたいと存じます。
この部屋に歩をとどめることにより、卒業生諸兄に、燃焼させた青春に想いをおこすでありましょうし、在校生諸君は先人の刻んだ伝統を感得していただけることでしょう。それぞれの立場は異なれど、浦中浦高の関係者にとって共通の安らぎを与えてくれるのが、ここ麗和の館であると信じます。
麗和会館ならびに展示室に対しまして、関係各位の一層のご協力をいただき、さらに充実した館となりますようお願い申しあげる次第でございます。
昭和六十三年五月八日
埼玉県立浦和高等学校同窓会
ポスター

麗和会館「資料展示室」
公開中
浦中・浦高120年の歴史が一目でわかる!
「資料展示室」は浦高創立90周年の時に、浦中・浦高の歴史と文化を広く公開するため、麗和会館建設に際して設置されました。
その後30年を経て平成27年に120周年を迎え、新たな視点で資料を精査し、展示内容を一新して、リニューアルオープンいたしました。
室内に「麗和会館資料展示室のしおり」が置いてあった。

その中に浦高文化財地図のページがあった。

⑳まである。
いくつか興味があるものがあったので、普段は見学できないだろうから、探してみることにした。
浦高生と言えども、高校生なので、こういうものに興味を示す生徒はそれ程多くないだろう。
ネットで調べてみたが、『浦高文化財』について書かれているものが見つからなかったので、記事を書いてみることにした。
①麗和会館の階段の上り口




昭和19年8月25日、陸軍糧秣廠東京出張所(正式には「浦和陸軍糧秣支廠」)が浦中校舎の一部を使用して置かれ、野球場には職員のための掘っ立て小屋の宿泊施設(職員宿舎)が2棟、野球場の東側に南北に並んで建てられた。
戦後は浦中に払い下げられ、教員住宅として使われ、以下の先生方(敬称略)が住んでいた。 田中一(地理)、柴崎亮(英語)、荒木壯三郎(国語)、池田文雄(農業)、竹内雄也(数学)、細田懋(化学)、桐山一隆(地理)、金子武、野辺多津男、黒田清次(体育)
右側の昭和22年11月8日の米軍写真では、野球場の南側に東西に並んでいる。1棟ごとに四つ、 2棟で八つの窓が北側を向いている様子が、「ドレミファソラシド」の8音と重なることから、誰いうともなく「ハモニカ長屋」といわれていた。
昭和22年、第29回全国中等学校優勝野球大会県予選大会が7月21日~25日の日程で、県営大宮、浦和中、片倉中、浦和商を会場として行われ、浦中は旧制中学校最後の県大会優勝チームとなっている。この大会までにハモニカ長屋を移動しグランドを整備したと思われる。
「脱靴」の表示板は、陸軍糧秣廠東京出張所の宿泊施設(職員宿舎)の玄関に置かれていたものが、 戦後のハモニカ長屋に引き継がれ、さらに浦高同窓会館「麗和会館」にも引き継がれているのである。
出典:百年誌銀杏樹雄飛編、白球にかけた我が青春の軌跡一浦高野球部百年の歩み一
➈県庁舎焼失再建(S23~30)に伴い再利用した大谷石

⑩放送塔

道路側から

思っていたより高かった。
プレート類があるか見てみたが見当たらず。
設置目的等不明らしい。
⑭模型で見る旧ハモニカ長屋付近
模型

航空写真
ハモニカ長屋が野球場東南隅に南北に2棟 野球場にはサツマイモ畑だった面影が残る

昭和22年2月15日 米軍撮影
昭和27年頃7月15日に完成した図書館と、曳家して東西に並ぶハモニカ長屋が写る。

現在

少し高台になっていた。
⑱旧校舎玄関(通称パルテノン)

現在


窓の中に古い電話番号プレートが貼られているのが見えた。

番外編
麗和会館の展示物
定遠の鐘



その昔、日本が清国と戦争をかまえたことがある。いわゆる日清戦争である。清国は本来、海国ではないので造船技術の拙なかった。そこで、 英国に「定遠」・「鎮遠」という二雙の軍艦をつくらせ日本に対した。日本軍はこの二雙にかなり手こずった。とりあえず日清戦争で勝利をおさめたため、この定遠を分捕ったのである。次の日露戦争では旗艦三笠以下これを擁した日本海軍がバルチック艦隊をやぶるのである。
その定遠の甲板にあって、さまざまな合図を出したのがこれである。現在、伊豆弓が浜の臨海学校の集合合図に使っているが、スピーカーよりも泳者にとって聞き取りやすい音である。
また、このやぐらは本校の工芸教諭榎本氏の御厚意により作成したもので、総檜、無節(むぶし)、漆塗りである。相当な重量をもつこの鐘を支えるに充分なる、ほぞの構造をなし、釘は使っていない。この方も今後の文化財と呼べるものである。
鐘が本校に来てから、木造B校舎の用務員室軒下に下げられ、授業の開始終了を告げていた。戦後一度落下し、亀裂が生じたため、当時の松原教諭が生徒二人にこの重い鐘を樫の棒に通して持たせ、京浜東北線乗り、川口の鋳物屋まで運び、修理をしたと言う話が伝わっている。表面に -LONDON, 1879-の文字が上下二段に読み取れる。
平成5年3月31日

昭和21年浦中工作班が作り始め
昭和32年度まで(推測)の浦高工作部が図書館・体育館など新たな建物を加え
平成27年浦高工芸部が清掃・修復した
理科の実験器具(昭和10年代製造品)


① 概略抵抗検査機(昭和16年製 横河電機製作所)
② 電圧調整用界磁抵抗器(昭和17年製 東電気製作所)
③ 携帯用単相電力計(昭和16年製 横河電機製作所)
④ 講義用電圧計(製造年不明 大久保機械店)
⑤ TESLA COIL(昭和17年製 日本整電社製作所)
⑥ 顕微鏡(製造年不明 ふた上に「物理37」
メーカーは ERNST.LEITZ.WETZLAR ライカの前身)
軍需物資の受け入れ品の可能性も
80年誌42ページには、戦後、大宮造兵廠や朝霞陸軍予科士官学校などから軍の物資(主として理科関係器具や薬品類)を受け入れたとある。
その中には、「大型スライド抵抗器、金属製顕微鏡、電圧計」など、展示品とダブルものもある。製造年月日がわかるものはいずれも戦争中の製造であり、浦中で戦争中に使われたものか、戦後の払い下げ品かは不明である。
この中にテスラコイルがあった。

地図類
埼玉縣浦和耕地整理組合原形圖(大正11年)

小字名が載っていた。
昭和12年領家への移転 その1


移転直後の領家校舎と案内図 校庭南に祠堂林 仲仙道には松並木が表現されている
場所は浦和市領家
北浦和駅より凡そ・・・
七百米・徒歩にて約七分のところです
尚駅から学校への直線道路は追って舗装されます
新興浦和

浦中・浦高の美術教師を務めた福宿光雄氏筆「新興浦和」昭和8年ごろの浦和案内のパンフレット。北浦和駅が「新駅予定」とあり位置が北にずれている。 電車の位置を駅と見るとわかりやすい。
西口正面には旧制「浦和高校」、鹿島台には17号を挟んで東に「浦和中学」、西に「男師範」が描かれている。(浦和市史第4巻近代資料編Ⅱ付録)

同じく福宿光雄氏筆による昭和12年秋、即ち浦中が領家に移転したころの北浦和駅西口の風景である。駅前に畑が広がっている様子がわかる。
(浦和市史第4巻近代資料編Ⅱ表紙裏)
"僕たちの浦高通り" 高37回卒業アルバムより(昭和60年卒 1985)

「夏は白アリ、冬は黒アリ毎朝ゾロゾロ浦高通り」 昭和56年から浦高通り完全右側通行の伝統が消えた。
天王川と小泉屋
天生川は、台風の時など幾度か氾濫し、 我々の行く手を阻んだ。いつもは小泉屋と共に、なんとも言えぬ風情をかもし出している。
現在残っているのは、王子信用(現城北信金)マクドナルド、娘々くらいか。でも、マクドナルドと娘々の場所が現在と違っている。それぞれ移転したのかもしれない。
今年の来場者数は、14,009人で、歴代最高来場者数だったそうだ。
2025年9月20日(土)、前を通ると門が解体中だった。


「気を付けてね。」オジサンは心の中で願うのだった。