光ヶ丘へ向かうため、ひたすら富士街道を歩いていると、いくつか説明板が立てられていた。

ふじ大山道


ふじ大山道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山へ、また大山から富士山への道者達が通ったからです。北町一丁目で川越街道から分かれて、石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断して区内では約八キロメートルに及んでいます。そしてその分岐点には、「従是大山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。
旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」 とあるように、六月二十八日が初山で、それから七月十四日まで、連日、関東の村々から集まった人々でにぎわいました。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
昭和五十八年三月

ここに「練馬区登録史跡 田柄用水跡」があった。

明治四年(一八七一)に田無、上保谷、関、上・下石神井、谷原、田中、下土支田、上・下練馬の各村へ、農業用水を引くために開さくされた用水路。昭和三十年代には通水が止まり、ほとんどの水路は埋められましたが、憩いの森内の約四七メートルは当時の姿が素堀りのまま残っています。
多摩川の羽村から引水していた玉川上水は、小平市で田無用水に分水していました。田柄用水は田無用水から西東京市田無町で分かれ、富士街道に沿い、石神井公園駅の手前で北上、土支田・光が丘を経由し、田柄・北町へと流れていました。
令和六年(二〇二四)三月
地図

素堀りされた跡


上と同じものが別なところにも建てられていた。

新しく建てられた「大山街道」の説明板

大山街道は富士街道、道者街道ともよばれています。
それは阿夫利山ともいわれた大山(神奈川県伊勢原市等)へ、また大山から富士山への道者達が通ったからです。
北町一丁目で旧川越街道から分かれて、石神井、田無を経て伊勢原に達していました。練馬の中央部を北東から南西に横断して区内では約八キロメートルに及んでいます。旧川越街道との分岐点には「従是大山道」 と刻んだ道しるべ(道標)が建てられたのです。
旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼が盛んに行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、六月二十八日は初山で、それから七月十四日まで、連日、 関東の村々から集った人々でにぎわいました。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
令和四年(二○二二)三月
昭和五十八年三月版とほとんど同じ内容だった。
谷原延命地蔵(練馬区登録文化財)
ふじ大山道





地蔵の台石正面には「念佛講中 武州豊為郡谷原村 二十人 惣村中 安永四未十月吉辰」(一部磨滅)と刻まれ、一七七五年に谷原村の念仏講中の人々によって立てられたことがわかります。蓮華座に載った丸彫立姿で、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ延命地蔵の普遍的な姿を示します。
台石側面には「左 たなし道 大山道 二里」「みぎ はしど道」と刻まれ、道しるべとなっています。地蔵に向かって左側の道は「ふじ大山道」とも呼ばれ、川越街道の北町一丁目から分かれて練馬区のほぼ北東から南西を横切り、西東京市を経て、調布市で甲州街道に合流、多摩川を渡り、神奈川県の大山に通じていました。また、大山から御殿場、府中から甲州街道で大月、富士吉田を経て、富士山へ至る道でもありました。富士・大山信仰の人々が旧暦六月の「山開き」から旧暦七月の「山しまい」まで、講印や神社印がついた白い行衣姿で、大山(阿夫利神社)や富士山(浅間神社)に登拝するため、この道を行き交いました。
平成十三年三月


当公園の南の道を旧富士街道といい、古くはクヌギ並木でした。
大山街道・道者街道とも呼び、富士・大山・御岳信仰が盛んになった江戸中ごろから、多くの人々に利用されていました。
北町一丁目の旧川越街道に「ふじ大山道」の道しるべがあり、練馬区のほぼ、中央部を東北から西南へ横切っています。現在、富士街道とは通称になっていますが、その当時を偲ばせる文化財が数多く残っています。
撮影日 2025年6月12日