2025年9月1日、太陽が照り付ける中、荒川土手の上を歩いて、熊谷市から鴻巣市へ移動。

それにしても、暑い!
土手で1枚の説明板を発見。
小谷城跡
今年以降の販売を目標にしているらしい。
これを文字起こしした方はいないようなので、文字起こししてみよう。
Google レンズを起動させる。→ テキストをコピーする。→ 目視で確認する。
ホント、Google レンズは便利だ。元の画像が良ければ、100%解読してくれる。

『新編武蔵風土記稿』〔文政一一年(一八二八)〕の小谷村旧蹟の項に
宝性寺域内ヨリ荒川堤辺ヲ土人、城山ト呼ベル所ナリ。サレド今ハ遺形モアラザレバ、境界定カナラズ。古ハ小宮山内膳トイヘル人住セジ由伝フレド年代等詳ナラズ。按二箕田村宝持寺ノ開基ヲ小宮山弾正卜云。又戸塚村二小宮山弾正ガ居城跡トアリ。天正年間二改メ成田家ノ分限帳ニ小宮山弾正介忠孝ト戴タリ。サレバ内膳ハ比弾正ガ一族ニシテ、成田家ニ任ヘシモノヤ。
宝性寺とあるのは、現在吹上町大字小谷にある曹洞宗宝勝寺のことであり、戸塚村というのは現在川口市内編入にされている村である。
小谷城は大字小谷の南方、今の宝勝寺辺から荒川堤防を越えて五反田へ通じる一帯の広い面積といわれ(図)、今なお土地の人々から、「城山」「城山池」「小城が池」「元屋敷」「しおきば」「ちょうれんば」「かなやま」「かわだな」「鐘塚」「さぎまち」「おおちょう寺跡」「金乗寺跡」と呼ばれている畑地が残っている。
また鐘塚には伝説があり、昔六人の堂守(鐘番)がいたが、敵襲に際し、この鐘を最後まで鳴らしながら、六人の者が戦死したとい残されている。 さて戦国期の居住者だが、前述した、『新編武蔵風土記稿』によると小宮山内膳という名がみえる。それとは別に、天正九年(一五八一)に作成したとみられる龍淵寺本「成田分限帳」によれば「永百貫小宮山弾正」とあって二人の小宮山氏が出てくる。
ちなみに、天正十八年(一五九○)六月、豊臣秀吉の命を受け、 石田三成が忍城を水攻めにしているが、その折、成田氏は小田原にて北条氏を助けており、その応援部隊の中に小宮山弾正の名があることが長久寺本『成田分限帳』に見ることができる。その後豊臣方に降伏した忍城主成田氏長は、天正十九年(一五九一)には鳥山に移封されたことを考えると成田氏に仕えた小宮山氏の人としては弾正が最後の人となり、内膳は弾正より古い祖先の一族ということが考えられる。
旧小谷村史碑
消防団第4分団の建物の敷地内にある。
村の歴史が書かれている碑は珍しい。
これも文字起こしした方はいないようなので、文字起こししてみた。

旧小谷村は明治二十二年四月一日、前砂村、明用村、小谷村、三町免村の 四村合併によりできた村であり、 吹上町の南部に位置し、東北は元荒川、西南は荒川を境に比企丘陵に近く、遠くに富士山と秩父連峰を一望できる景勝に恵まれた地である、小谷の地名に江戸元禄の頃までは「小屋」とも書かれていたが、低地であった事から「小谷」と称するようになったと思われる。
また、旧小谷村は、三島神社古墳、村内に多数みられる板石塔婆、小谷城跡、 旧中仙道の一里塚跡、荒川の五反田の渡し跡等に、その長い歴史と伝統を知ることができる。
また、この小谷の地は、過去幾多の水害に見舞われ、田畑の収穫も十分ではなかったが、寛永六年、江戸幕府による荒川流路改修工事により、現在の堤防が構築され、以後村民は一致協力して苦難を克服し村の発展隆盛に努力した。
更に明治以降、先人達は村の興隆のため、明治四十一年「村是」が定め、主として稲作と蚕産業等を奨励し、村の財源を確保するとともに、学校教育に力を注ぎ、幾多の社会有為の人材を輩出している。
その後、昭和二十九年七月一日、更なる郷土発展を期して吹上町と合併し、益々興隆の実を挙げつつある。
吹上町では、"ふるさと創生"の一環として平成三年四月から「ふるさとの散歩道」の整備を進めているが、その通筋に小谷の先人達が築いてきた歴史を後世に伝えるため長く旧小谷村役場のあったこの地に、地元の協力を得て、史碑を建立する
平成五年四月一日
吹上町長 江熊芳雄
裏面

小谷村道路元標
正面に見えているのは消防団第4分団の建物、左側は小谷小学校。

正面

真上

裏面を撮り忘れたが、大正十三年と刻まれている。
鴻巣市立小谷小学校


壁画


小谷ささら獅子舞の絵だろうか?
見たことがない遊具

どうやって遊ぶのだろう。
平日なのになんで誰もいないなと思っていた。まだ夏休みなのか?
この記事を書いている時、調べていたら、2025年3月31日で閉校していた。開校したのが1907年(明治40年)、歴史ある小学校だったようだ。
