歩・探・見・感

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『藤兵衛新田稲荷神社』にあった『藤兵衛新田のゆかり』碑in 埼玉県川口市

2025年10月11日、特に予定していなかったが、神社が見えたので、立ち寄ってみることにした。

『藤兵衛新田稲荷神社』というここの町名「藤兵衛新田」が付いている神社だった。

所在地 埼玉県川口市藤兵衛新田290

鳥居を入って右側に『藤兵衛新田のゆかり』と書かれたものがあった。

ネットで調べてみたが、書き起こした方はいないようだ。

書き起こした方がいないと、書き起こしたくなる性分。

チャレンジしてみよう。

県南東部、綾瀬川右岸の沖積地に位置する。地名は開発者の名に由来するという(新編武蔵)。
【近世】の藤兵衛新田 江戸期~明治二十二年の新田村名。足立郡のうち。はじめ幕府領、寛永年間関東郡代伊奈氏の知行。寛政四年からは再び幕府領。検知は延宝六年。村高は「田園簿」○○五十一石余、うち田四十五石余・畑五石余、「元禄郷帳」五十一石余、「天保郷帳」六十七石余。村の規模は東西三町・南北二町余。化政期の家数十三軒。低地は水田稲作が主で、見沼代用水を利用。村の東から北へ綾瀬川が流れ、溢水などでしばしば水損を被り、年貢減免を繰り返している。また西側を伝右川が流れる。この水損の緩衝地として広さ十町歩余の沼をつくり、大沼と称し、長右衛門新田・新兵衛新田・埼玉郡大間村・七左衛門新田・越巻村などの入会地であった。村の鎮守は稲荷社。不動を安置する村堂があった。高札場は村の中央。小名は中島。明治四年、埼玉県に所属。同九年の戸数十三・人口八十一、馬○○、水害予備船三・耕作船十七、荷車四。物産は米・大麦。明治十二年北足立郡に所属。同二十二年戸塚村の大字となる。
【近代】の藤兵衛新田 明治二十二年~現在の大字名。はじめ戸塚村、昭和三十一年美園村、同三十七年から川口市の現行大字、人口は明治二十二年八十四・昭和四十三年百三。(県史より)
昭和三十七年当時、当地区が美園村より川口市への編入にあたり、地区内住民の共有入会地が、川口市の帰属となりうることの旨を大野元美市長より内示を受け、地区区長であった赤沼宗一郎氏は、地区内住民の総意を取りまとめ、氏子の共有財産として手続きを執り、今日に至っている。

上の方が消えているので、読めない字もあったが、大体は解読することが出来た。

黒文字の自治体の痕跡が残っているか、探してみたくなった。

歴史を辿ってみよう。

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行に伴い、戸塚村・西立野村・長蔵新田・久左衛門新田・藤兵衛新田が合併し、戸塚村大字藤兵衛新田となる。

1956年(昭和31年)4月1日
戸塚村・大門村・野田村が合併し、美園村が成立する。美園村の大字となる。

1962年(昭和37年)5月1日
美園村の南側(旧戸塚村と旧大門村の一部)が川口市編入され、川口市の大字となる。

それほど古くないが、ざっと探索した感じでは、古い家はあまり残っていなそうなので、痕跡は残っているだろうか?

藤兵衛新田公園