軒下に、黒猫がいる。
古びた木の梁の上で、風鈴の音に包まれながら、静かに町を見下ろしている。

この猫に初めて出会ったのは、ある曇りの日の午後だった。
ふと見上げた先に、まるで空気の一部のように、ひっそりと佇んでいた。
目を凝らすと、左右の目の色が少し違って見えるような気がした。
片方は金色、もう片方は深い緑…でも、光の加減かもしれないし、影のいたずらかもしれない。
その曖昧さが、かえってこの猫の存在を、どこか夢のように感じさせた。
そんな猫を見ていたら、ふと、こんな物語が浮かんだ。
ひかりとかげのあいだで
古い町のはずれに、ひっそりと佇む木造の家があった。
屋根の下、風に揺れる風鈴の音が、昼と夜の境目を知らせる。
その軒下には、いつも一匹の黒猫がいた。
名前は誰も知らない。ただ、近所の人たちは「クロ」と呼んでいた。
クロは、決まって夕暮れどきに現れる。
木の梁の上にちょこんと座り、じっと町を見下ろしている。誰にも近づかず、鳴き声もあげない。ただ、静かに、すべてを見ている。
ある日、通りがかった少女がふと立ち止まった。
「ねえ、君の目…色が違うの?」
クロの目は、片方が金色にきらめき、もう片方は深い緑に沈んでいるように見えた。
でも、光の加減かもしれない。影がそう見せているだけかもしれない。
少女が目を凝らすと、クロはふいっと顔をそらして、しっぽを揺らした。
「ふしぎな子…」
その日から、少女は毎日クロに会いに来るようになった。
パンの耳を持ってきたり、静かに絵を描いたり。クロは何も言わないけれど、いつもそこにいて、風鈴の音とともに彼女を迎えてくれた。
ある雨の日、少女はふと思った。
「クロの目が、もしほんとうに違う色だったら…それは、どんな意味なんだろう?」
その夜、少女は夢を見た。
夢の中で、クロは人の姿になって、こう言った。
「ぼくの目は、ひとつは昼を、ひとつは夜を見ているんだ。
だから、君のことも、君がまだ気づいていない気持ちも、ちゃんと見えてるよ。」
目が覚めると、クロはいつもの場所にいた。
ただ、今日は両目とも、まっすぐに少女を見つめていた。金色にも、緑にも、黒にも見えるその瞳。 少女は笑って言った。
「うん、やっぱり、どっちでもいいや。クロはクロだもんね。」
風が吹いて、風鈴が鳴った。
クロはしっぽをひとふりして、また静かに目を閉じた。
再会の夢
季節は巡り、少女は大人になった。
都会の片隅で忙しく働きながら、あの町のことを思い出すことは、いつしか少なくなっていた。
けれど、ある日。 仕事で偶然通りかかった電車の窓から、見覚えのある風景が目に入った。 赤茶けた屋根、ゆれる風鈴、そして——あの軒下。
「…まさか」
思わず途中下車して、足が勝手にあの場所へ向かっていた。
懐かしい道、少しだけ新しくなった店先。けれど、あの家だけは、時間が止まったように、昔のままだった。
そして、いた。
軒下の梁の上。 まっすぐに座り、静かに町を見下ろす黒猫。
白髪もなく、しっぽもまっすぐ、あの頃とまったく変わらない姿。
「クロ…?」
声に出した瞬間、猫がこちらを見た。
その目は、やっぱり——片方が金色に、もう片方が深い緑に見えた。
彼女は思わず笑ってしまった。
「やっぱり、君は年を取らないんだね。」
クロは何も言わない。ただ、風鈴が鳴るたびに、まるで「おかえり」と言っているようだった。
彼女はそっと腰を下ろし、バッグからパン屋で買ったフランスパンを取り出した。
「まだ、これが好きかな?」
クロはゆっくりと立ち上がり、梁の上から軽やかに飛び降りた。
そして、彼女の足元にすり寄ると、静かに座ってパンを見上げた。
「変わらないね、ほんとに。」
彼女はパンをちぎって、クロの前に差し出した。
クロは一口かじると、満足そうに目を細めた。
その目は、やっぱり、金色と緑色に見えた。 でも、彼女はもう確かめようとはしなかった。
「また来るね。今度は、ちゃんと時間をつくって。」
クロは何も言わず、ただ風の音とともに、そこにいた。
そして彼女は、心の奥にしまっていた何かを、そっと思い出した。
撮影日 2024年5月23日
撮影場所 神奈川県鎌倉市