歩・探・見・感

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都市開発を生き延びた石製坂名標たち

都内の坂道を歩いていると、各自治体が設置した木製の角柱や、アルミ・鋼製の案内パネルをよく目にする。現在見られる坂名標の多くは、昭和中後期以降に自治体が整備したものである。

戦前に建てられ、かつ建立時期が明記されている石製の坂名標は、激しい都市開発や戦災を経て多くが失われており、現存するものは貴重な存在となっている。

都内には大正から昭和初期にかけて行政や郷土史団体が設置した歴史顕彰碑や旧跡碑、あるいは各所に町会が建てた記念碑などは複数存在するが、「江戸後期から戦前にかけて建てられ、かつ建立時期が明記されている石製の坂名標」となると、確認できる数は急激に減少する。

今回は、筆者が近年現地で実地観察を行い、資料との照合を進めた事例の中から、建立年が判明している石製坂名標3例を紹介する。

1. 【文政13年(1830年)5月】小石川・堀坂の摩滅した石標

一部の文献やネット上の記述では、堀坂周辺を「狭い路地」と表現する例が見られるが、実際の現地は幅員が確保され、路面には滑り止め加工(輪っか模様)が施されたアスファルト舗装の坂道である。

この坂の途中、民家の敷地に接する縁石の上に、足元をコンクリートで固定された古い石標が現存している。

正面中央は長方形に一段低く彫り込まれており、そこに仮名で「ほりさか」と刻まれているが、上部の摩滅が激しい。下部にある「か(可の変体仮名、あるいは草書体)」と思われる部分も輪郭が薄くなっており、肉眼での判別は容易ではない状態だ。

左側面には陰刻の線が目視できるものの、現在の経年風化と地衣類の着生により、通常の光では「文政」の文字を識別することは困難である。

ただし、過去に郷土史研究者らによって行われた拓本調査の記録によると、左側面に「文政十三寅年」、右側面に「五月吉日」の陰刻があることが確認されている。江戸時代、この坂の北側にあった旗本・堀家の屋敷が坂を修理した際、記念あるいは道標として建てたものであり、年号が判明している現存坂名標の中では、都内最古級と考えられている。

撮影日 2026年6月13日

 2. 【昭和4年(1929年)7月】音羽・豊坂の「漂流した」巨大石柱

文京区音羽1丁目の井上公園(井上哲次郎旧邸跡)の片隅、土蔵の脇に、根元から抜かれて地面に横臥(おうが)している巨大な石柱がある。

実測による全長は230センチ(現役時の露出部は約170センチ)、重量は約550キロと推定される。この巨石の表面には「豊坂ト命名シ豊友会之ヲ建ツ 昭和四年七月」という明確な刻字が残されている。

自治体の公式な行政記録にはこの石柱に関する詳細な移動経緯は乏しいが、1974年(昭和49年)当時の古写真との照合や現地調査から、本来は目白台の坂に設置されていた石柱が廃棄を免れ、現在の公園へ移設(漂流)されたものと考えられる。

用途を失い、横たわりながらも、戦前の地元の有志(豊友会)の手によって建てられた歴史と質量を今に伝えている。

撮影日 2026年3月7日

3. 【昭和4年(1929年)11月】南麻布・新富士見坂の移設石柱

港区南麻布4丁目の新富士見坂は、明治末期から大正初期にかけて新たに開かれた坂であり、既存の敷地の間を縫うように通されたため、クランク状に直角に2回折れ曲がる特異な線形を持つ。

かつて、このクランクの第二屈折部には、昭和4年11月に地元の「富士見町町会」が設置した古い石製の坂名標識が存在していた。

※東京23区の坂道より 2003年に撮影されたもの

一部の路上観察記録では「撤去・消失」とされていることもあるが、実際には完全に失われたわけではない。

現在は、坂下から少し離れた「天現寺スクエア」の角にある敷地内の植え込み脇に移設され、保存されている。

現在の設置状況を観察すると、移設の際に安定を期したためか土台部分が深く埋設されており、実測による地上高は72センチ(コンクリート土台露出部は12センチ)と、本来の想定高さよりも低く収まっている。

その結果、正面の「新富士見坂」の文字の下部、および側面の刻字「昭和四年十一月」「富士見町」の下部が地面(土台)に埋もれている状態である。

元あった場所からは離れたものの、新たな場所で今もなお戦前の地域の記憶を留める路上文化遺産として現存している。

撮影日 2026年3月21日

まとめ

音羽・豊坂の石柱(7月建立)と、南麻布・新富士見坂の石柱(11月建立)は、昭和4年というまったく同じ年に建てられたものである。

一方は根元から抜かれて公園の片隅に横たわり、一方は本来の坂から離れたビルの植え込みに深く埋もれながら残っている。そして小石川では、それらよりさらに100年近く古い文政13年の石標が、文字を消しかけながらも坂の脇に残されている。

現時点で筆者が確認している範囲では、これらは極めて希少な生存例であり、2026年の今、現地で観察できるこれらの石のありようは、東京という都市の変遷や、それぞれの時代に坂を利用・整備した人々の存在を考える重要な手掛かりになっている。

作成日 2026年6月14日