現代の都市風景、とりわけ自治体同士の境界線を歩いていると、不自然な起伏や、うねうねと蛇行する道路に出会うことがある。今回紹介するのは、台東区と文京区の区境に今もその形状を留める「藍染川(あいぞめがわ)」の暗渠跡と、その水辺の傍らで近代日本のものづくりを支えた産業の痕跡をめぐる探索の記録である。
1. 区境の蛇行と「藍染川」の記憶
文京区と台東区の境界線に沿って歩を進めると、道路が奇妙にうねりながら蛇行していることに気づく。かつて藍染川の流路だった現在の「よみせ通り」を歩き、三崎坂通りへと突き当たる交差点付近に達すると、その傍らに文京区教育委員会が設置した「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」の説明板が佇んでいる。

説明板によれば、このうねうねとした道路そのものが、かつて藍染川が流れていた跡であるという。また、前方の道路が交わるこの交差点付近には、江戸時代の資料にも見える「合染橋」や「枇杷橋」が架かっていたと記されている。
川の歴史について、説明板には次のような事実が紹介されている。
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水源と流路: 『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)であり、そこから西ヶ原村、駒込村を経て根津谷に入る。さらに不忍池から上野の山の三枚橋下で「忍川(しのぶがわ)」となり、三味線堀から隅田川に注いでいた。
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川名の由来: 上流から「境川」「谷戸川(谷田川)」「藍染川」などと呼ばれた。藍染の名は、染井から流れ出るため、あるいは川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど、諸説ある。
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暗渠化の年代: 水はけが悪くよく氾濫したため、大正10年(1921年)から暗渠工事が始められ、現在の区境の道路となった。
江戸期から人々の生活とともにあった水面は大正期にコンクリートの下へと消えたが、歪んだ道路のカーブそのものが、かつてここに川が流れていた確固たる物証として現代の路上に遺されている。
2. 藍染川のほとりに出現した「リボン発祥の地」
暗渠沿いのうねる道をさらに進み、台東区谷中3丁目(旧・下谷区谷中初音町4丁目)の周辺へと向かう。植栽の中に、「谷中のこ屋根会」が設置した「リボン発祥の地(千代田リボン製織所跡)」と題された金属製の解説板を見つけることができる。

この解説板には、明治期に始まった近代日本のものづくりに関する事実が、以下のように記されている。
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西洋式リボンの誕生: 1894年(明治27年)、藍染川(谷田川)のほとりにあたる下谷区谷中初音町4丁目38番地に「岩橋リボン製織所(創業者は岩橋謹次郎)」が設立され、日本で初めて西洋式リボンが生産された。それまで紳士の帽子や淑女の髪を飾るリボンは輸入に頼っていたという。
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工場の変遷: やがて技術を支えた渡辺四郎、さらに鈴木哲に引き継がれ、「千代田リボン製織所」として昭和40年代まで操業。その後は印刷所として使用された。
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景観の消滅: 北側の天窓から安定した自然光が入る特徴的な「のこぎり屋根」の工場は、地域に愛されつつも2013年(平成25年)9月に解体された。
説明板では、藍染川の名の由来として「川筋に染物屋があり、川の色が藍色に染まっていた」とする説も紹介されている。一方、明治期にはその川のほとり(説明板には「藍染川(谷田川)のほとり」と明記)で日本初の西洋式リボン製造が始まったという。両者に直接の歴史的連続性や関係があるかは不明だが、同じ水辺の周辺で、時代を違えて繊維や染色に関わる営みがそれぞれ記録されている点は興味深い。
3. 結び:失われた風景を路上に拾う
現在、この場所を歩いても小川のせせらぎは聞こえないし、かつて明治の産業を支えたのこぎり屋根の工場建築も2013年に姿を消している。
しかし、歩道の脇にひっそりと佇む教育委員会や地域有志の説明板に目を凝らし、目の前にある「うねうねと蛇行する道路」という地形の不自然さと突き合わせることで、かつて存在した水辺の風景と、そこで営まれていたものづくりの歴史が、地層のように重なって浮かび上がってくる。
都市の中では失われたように見える川も、その流路は道路の形や説明板、地域に残る記録として静かに受け継がれている。歩きながらそうした痕跡を一つずつ拾い集めることも、路上観察の楽しみの一つなのだろう。
撮影日 2026年6月25日