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旧町名 新座町西堀上千人道

発見日  2021年8月3日

発見場所 埼玉県新座市西堀2丁目

歴史

1871年明治4年)11月14日 (旧暦)
浦和県・忍県・岩槻県の3県が合併して埼玉県が誕生。

1875年(明治8年)4月8日
新座郡野寺村・中沢村・十二天村・下中沢村・下片山村・石神村・原ケ谷戸村・辻村・堀ノ内村・栗原村が合併し、片山村となる。

1889年(明治22年)4月1日
町村制施行に伴い、新座郡和田町・野火止村・北野村・菅沢村・西堀村が合併し、新・大和田町が成立する。また片山村単独で片山村が成立する。
西堀村は大和田町の大字西堀となる。

1896年(明治29年)3月29日
新座郡が廃止され、北足立郡編入される。

1955年(昭和30年)3月1日
和田町、片山村が合併し、新座町が発足する。
新座町大字西堀となる。

1970年(昭和45年)11月1日
市制施行により、新座市となる。
新座市大字西堀となる。

 

○新座町を新座市とすることに伴う関係規則の整備に関する規則

昭和45年11月1日

規則第12号

(目的)

第1条 この規則は、昭和45年11月1日から新座町を新座市とすることに伴い、関係規則の整備について必要な事項を定めることを目的とする。

(題名、目次及び本則の改正)

第2条 町を市とすることに伴い、現に施行されている規則の題名、目次、本則、附則、様式、附表及び別表中「北足立郡新座町」及び「新座町」を「新座市」に、「新座町役場」を「新座市役所」に、「町」を「市」に及び町を含む複合語において「町」とある部分を「市」に改める。ただし、「市町村」については従前のとおりとする。

附 則

この規則は、昭和45年11月1日から施行する。

 

1973年
住居表示の実施に伴ない西堀二丁目になった。

 

小字名「上千人道」の由来を調べてみたが、情報を入手することはできなかった。

国宝 正福寺地蔵堂(千体地蔵堂)他 東京都東村山市

東村山市文化財を調べていたところ、なんと!国宝があることが分かった。

東宮御所迎賓館赤坂離宮)が2009年新たに国宝に指定される前までは、長らく東京都唯一の国宝建造物だったのが、今回紹介する正福寺地蔵堂だ。

関東に存在する国宝建造物一覧

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全国では奈良県が64で1位、京都府が51で2位で、圧倒的だ。
東京都が少ないのは、関東大震災東京大空襲でほとんど焼失してしまったからだろうか?

 

撮影日  2022年3月28、31日

撮影場所 東村山市野口町4丁目6番地1

 

道標

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地図の一部

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正福寺

創建年代については不詳であるが、鎌倉時代中期に鎌倉の建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられ、開基については執権北条時頼とする説と北条時宗とする説がある。

 

正福寺山門

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東村山市指定有形文化財(建築物) 

正福寺山門 

指定 平成17年4月20日 

金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。 

その仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京都唯一の国宝建造物です(昭和3年・1928年指定)。 

鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海(しゃけいしんげつぶっかい)であると言い伝えられていますが、 確たる史料は現存していません。 

正福寺山門は、昭和48年(1973)に行われた解体修理の際発見された、親柱?の墨書銘 「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建□(者)也、 此時住寺□月山(以下略)」 から、元禄14年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。 

山門の建築形式は、四脚門で切妻、昭和48年の修理の際に、茅葺から茅葺形銅板葺に改修されました。 建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行十尺(3.03m)、梁行十尺で、高さも柱底部から桁下端までで十尺となっています。 屋根は、かつては化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。 また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものとみられます。 

江戸時代の伽藍の遺構を示す、貴重な禅宗様建築物です。 

東村山市教育委員会

 

國寶千體体地蔵堂の石碑

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國寶という旧字体の文字が、石碑自体をものすごく存在感のあるように感じさせる。
このようなものを「オーラ」というのだろうか。

 

これが国宝だ!

日本一地味な国宝建造物だと言われているらしい。
確かに地味だ。

だが、鎌倉の円覚寺舎利殿と共に禅宗様建築の代表的遺構である。

正福寺地蔵堂(千体地蔵堂

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先入観はいけないが、曇っていたからか余計に地味に見える。

東村山市民にも 周辺エリアの方々にも《その認知度が低いと感じる》と地元情報サイトが嘆いていたらしい。

 

「桟唐戸(さんからど)」

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縦横に框 (かまち) を組み、間に薄い板を入れた扉

 

「波形欄間」

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波形の縦連子を入れた欄間

 

「花頭窓(火灯窓)(かとうまど)」

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枠を火炎形あるいは、花形に造った特殊な窓

上部

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禅宗様の特徴的なものとして以下のようなものがあるらしいが、どれがどこを指すのかよくわからない。

・屋根の下に美しく放射状に配置された木材の「扇垂木」。
・海老のように湾曲した形の虹梁の事で、側柱や本柱など高低差のあるところに用いられる「海老虹梁」。
・組み物を、柱の上だけでなく柱間にも置いて密に配する形式である「詰組」。
・虹梁などと上の梁を支える役割をしている中央に膨らみのある瓶の形の束である「太瓶束」。
・凹型の輪郭を持つ装飾である「繰り型」。

写真だが、よくよく見ると

 

右横から見たところ

 

裏から見たところ

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花とのコラボ

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全体的に暗くなってしまった。
曇り空だったので、あまりきれいに撮れなかった。
カメラの腕のせいだろうっだって?
そう言われると、言い返せない。
もう少しスマホのカメラテクニックを学ばねば。

 

東村山ふるさと歴史館に正福寺地蔵堂の模型があった。

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正福寺千体地蔵堂と堂内

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この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。 

千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舍利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間(なみがたらんま)、花頭窓(かとうまど)、 屋根の反りなどに特徴があります。昭和八年~九年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、 室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、 夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。 

地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化八年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。 

また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木造が奉納され、 堂内の天井に近い長押(なげし)に置かれ、千体地蔵堂の名もここに由来します。 祈願する人は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に一体添えて奉納するというもので、 像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大きさは10cmから30cmほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、 奉納者は、地元は勿論、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます。 

平成6年(1994)3月 

東村山市教育委員会

 

正福寺千体地蔵堂本尊

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東村山市指定有形文化財 

正福寺千体地蔵堂本尊 

所在地 東村山市野口町四丁目六番地一 

指 定 昭和18年3月31日指定第12号 

地蔵堂の本尊は、木造の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、 像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。 

寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、 昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。 

平成5年(1993)3月 

東村山市教育委員会

 

正福寺千体地蔵尊

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以前あった案内板には以下のように書かれていたようだ。

東村山市指定有形民俗文化財 正福寺千体小地蔵尊
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和47年3月31日指定第11号
正福寺千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
背面に文字のあるものは、約300体で、その年号は、正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は東村山を中心に、所沢、国分寺、小金井にまで及んでいます。
平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会

 

貞和の板碑(じょうわのいたび)

この中に設置されている。

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ガラスの上から3分割して撮ってみた。

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以前あった案内板には以下のように書かれていたようだ。

東村山市指定有形民俗文化財 貞和の板碑
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和44年3月1日
この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmあります。
碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年丑己卯月八日、帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。
この板碑はかつては前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したものです。
昭和60年11月 東村山市教育委員会

 

東村山ふるさと歴史館にこの板碑のレプリカがあった。

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野口町ぐるりさんぽみち

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新秋津駅前の観光案内図の裏に正福寺(千体地蔵堂)の絵があった。

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車道側なので、普通は気が付かないだろう。

 

今後も意外なところにある国宝、○○最古、○○最大、○○最長などを探して、紹介していきたいと思っている。

旧町名 奈良県奈良市三條池町

以前、奈良市の仁丹町名表示板で紹介した三條池町について、現存している町名ではないと書いたので、さらに深堀してみることにした。

奈良市の古地図を見てみると、国鉄奈良駅の周辺に「三条町」と書かれており、三桁の地番が記された地域が大きく広がっていた。
旧国道から西の方では、現在すべて住居表示が施行されており、三条添川町、三条栄町、三条桧町、三条宮前町、三条本町、三条大宮町などとなっている。
一方、東の方は、正式地番は未だに三桁のままで、三条池町、三条細川町、三条横町、三条三綱田町、三条今井町の他、三条通り2丁目、三条通り1丁目(油阪地方町、大宮町1丁目の一部含む)などの通称町名=自治会名が使用されている。

1889年(明治22年)に、奈良市の原型となる自治体「奈良町」が成立した時には、「上三条町」「下三条町」とともに「三条村」が加わっている。

かつて奈良奉行の支配する奈良廻り八ヶ村というのがあったが、「奈良廻り」には、三条村は入っていない。八ヶ村は、城戸(現・大森町など)、油阪(現・大宮町)、杉ヶ、芝辻、法蓮、京終、川上、野田(登大路など)で構成されていた。

江戸時代の奈良町絵図には、上三条丁、下三条丁の他に、 三綱田、今井丁、横丁、ほそ川など現在は「通称町名」として扱われているような町名が出てくる。
つまり「旧三条村」であった三条横町、三条細川町、三綱田町、三条今井町なども、もともとは奈良町に含まれていたということになる。

 

歴史

1889年(明治22年)4月1日
町村制の施行により、添上郡(そえかみぐん)奈良町・奈良坂村・般若寺村・川上村・雑司村・水門村・春日野村・紀寺村・高畑村・京終村・肘塚村・木辻村・城戸村・油坂村・杉ヶ村・三条村・芝辻村・畠中村の区域をもって奈良町が発足。

1898年(明治31年)2月1日
添上郡奈良町が市制施行して奈良市となる。

 

三条池町の表札も発見した。

 

三條会館

 

三條会館入口左側付近に「三條池上樋」などがまとめて設置されていた

 

三條池跡記念碑

「三條池上樋」と呼ばれる実際にため池で用いられていた「樋」であり、風化しているが、かつて農業用水利として活躍していた「ため池」の面影を現在に伝える唯一の存在となっている。

この地に三條池在り、三條池は江戸時代に三條村農民の手に依って築造したもので總面積は一町四反一畝十四歩(約14000平方メートル)あり、爾来今日迄三條村領内農耕地の灌漑用水の溜池として役立って来たが、明治21年市町村制度の制定により奈良市の管理する処となり、又近年奈良市の発展に伴い、三條地区も住宅化が進み農耕地も減少して溜池の必要が無くなったので市の計画する市街地の整備事業に協賛して由緒ある三條池を処分する事に決定した依って先人達の遺徳を偲びつつ追憶の標としてこの碑を建立する。

 

何と書いてあるか読めない。


碑文

 

「三條池町」は通称町名であることは分かった。

奈良市のホームページに
令和3年4月1日現在、奈良市には※643の公称町が存在します。
このうち、371町(住居表示実施町236、町界町名整備実施町135)を法律に基づき新設しています。
なお、町名のなかには、公称町名以外に通称町名があります。
奈良市では、公文書に使用する町名については、平成10年1月1日からすべて公称町名に統一しております。
なお、通称町名の証明書発行については市民課にて発行しています。
(※五条町については、住居表示の実施町とそれ以外がありますので、2町として扱っています。)

とある。

ここに「通称町名の証明書発行については市民課にて発行する。」とあるので通称町名も生きているのだろう。

 

深堀するなんて書いたが、あまり思うような情報が見つからなかったので、上にも出てくる奈良の難読町名「京終」について調べてみた。

北京終町はなんと読むだろうか?
「ぺきんおわりまち」?

南京終町は?
「なんきんおわりまち」?

まだまだある。

京終地方西側町は?
「きょうおわりちほうにしがわまち」?

京終地方東側町は?
「きょうおわりちほうひがしがわまち」?

正解は上から

「きたきょうばてちょう」

「みなみきょうばてちょう

きょうばてじかたにしがわちょう」

きょうばてじかたひがしがわちょう」

である。

ということで「京終」は「きょうばて」と読む。
「きょうしゅう」と読んでしまいそうだ。

 

「京終」の「京」というのは平城京のことを意味する。「終」は文字通りの「終わり」つまり「平城京の終わり」「平城京の端」に由来する。

京終のある場所は江戸時代の奈良町の南端に当たる。このことから奈良町の南限に当たり、ここで人家がなくなることに由来すると、江戸時代の本には出てくるそうだ。

また、同時にこの地は奈良時代平城京の左京の東端でもある。文字通り、平城京の左京の端ということだから、ここからも「京」の「終」わりということになるわけだ。

 

京都にも終わりの字がつく「上終町」がある。
読み方は「かみはてちょう」だ。
場所は左京区白川通東鞍馬口通の交差付近だ。
地名の由来は1918年(大正7)京都市編入の際に北白川地域の最北端の町という意味で、名付けられたそうだ。

旧町名 浦和市根岸神明台

東京23区の旧町名は、ほぼ他の方が紹介しているものをリメイクしているだけであるが、これはこれで、自分なりにアレンジして紹介しているつもりなので、自分的には楽しい。

旧町名については元々「埼玉の古い地名を探す」さんを先生にさせていただいて、埼玉県の旧町名の探索を中心を街歩きをしていた。

過去に撮った写真を見ていたら、埼玉県の未公開のものがいくつか見つかった。

そのお蔵入りになっているもので、あまり世間に紹介されていないと思われるものがある。

それほど多くはないと思うが、徐々に紹介していきたいと考えている。

このブログを訪問してくれている方で埼玉県の旧町名マニアの方がいるかどうかわからないけど、はてなブログアクセス解析を見ると、埼玉県のものもいくつかあるので、この駄文を読んでもらえているかはわからないが、見てはもらえているのだろう。

 

ということで、紹介しよう。

 

発見日  2020年9月10日

発見場所 埼玉県さいたま市浦和区?南区?神明1丁目

かつてはこの周辺は境界が入り組んでおり、神明台と通称されていたらしい。

というわけで、これは浦和区?南区?どっちだったけとなってしまった。

 

1980年(昭和55年)11月1日
浦和市岸町二丁目、大字大谷場、白幡、文蔵、根岸の各一部から神明一・二丁目が成立。

2001年(平成13年)5月1日
浦和市が大宮市・与野市と合併し、さいたま市神明となる。

2003年(平成15年)4月1日
さいたま市政令指定都市移行に伴い区制施行、一丁目(7〜9、18〜28番)、二丁目(5〜25番)が浦和区、一丁目(1〜6、10〜17番)、二丁目(1〜4番)が南区に分割される。

 

かつて大字根岸には「神明」という小字があったらしい。
根岸1丁目には根岸神明社があり、ここはかつては「大字根岸字神明丸」だったらしい。
この表札の「台」の字はくずされているが、「丸」にはどう見ても見えない。
ということは「浦和市大字根岸字神明台」でいいのだろうか?

 

付近にある神明通りの琺瑯町名看板

町名ではなく通り名だけの琺瑯町名看板は、珍しい存在だろう。

 

ヤフーオークションで「東京都23区・区分詳細圖集全28図揃大東京精図三多摩北多摩武蔵野三鷹八王子立川全28図揃昭和41~43年作成箱付箱付完揃」が出品されていた。
自分も入札していたのだが、落札はできなかった。
落札金額は43,000円だった。
自分も含めて9人の戦いだったが、まさか4万円オーバーになるとは思わなかった。
同様のものが現在も10万円で出品されている。
それよりは安いが、元は2,970円のものである。


昭和レトロがブームだし、旧町名もブームなのだろうか?

変梃りん旧町名? 浦和市北浦和元町

まず「変梃りん」に目がいったあなた。

タイトルがおかしいのではないか?と思ったことだろう。

「へんてこりん」を変換したら「変梃りん」が出てきたので使ってみた。

 

発見日  2020年1月22日

発見場所 埼玉県さいたま市浦和区元町3丁目

浦和市は2001年にさいたま市になっており、昨年はさいたま市誕生20周年を迎えた。
なので、浦和市のものは旧町名と言えるのだが、街探索をしていると、さいたま市の表札より浦和市の表札の方が多い感じだ。

マニアの方から見たら、浦和市のものは旧町名ではあるが、わざわざ取り上げる対象にはならないというのが、一般的であろう。

その通りである。

旧町名としてではなく、浦和市の後の町名「北浦和元町」に注目してもらいたい。

何か違和感を感じないだろうか?

北浦和」と「元町」どちらも現浦和区にある町名である。

わかった!

と思ったあなた。

流石マニアである。

そう「北浦和」と「元町」が合体してしまっているのである。

浦和市元町」が正解で「浦和市北浦和元町」は存在していなかった。

なぜこんな町名を作ってしまったのか、不明であるが、斬新と言えば斬新である。

北浦和」は「元町」と隣接しているので、こんな町名を作ってしまったのだろうか?

まさか住民の方は、手紙とかにこの住所を書いていないよね。

旧町名に感心がなかった頃は、この前をよく通っていたが、全然気が付かなかった。

旧町名に感心を持つようになって、ふと見たら、何だこりゃと思い、パチリと写真を撮り、いつかブログに載せようかなと思っていて、ようやく今日陽の目を見た次第である。

町会会員プレート 宮田町会

このようなものは、発見したこの機会に取り上げないと、永遠にお蔵入りになってしまいそうなので、紹介することにした。

 

発見日  2022年5月12日

発見場所 東京都墨田区文花3丁目

琺瑯性の町会会員プレートが存在しているので、歴史ある町会なのではないかと思った。

宮田町会は京島三丁目44番6号・8号・11号、57番、58番7号から15号、60番1号から6号、61番から68番と文花三丁目2番から20番で構成されているようだ。

以前の資料では600世帯が居住しているとのことだが、現在では減少しているのではないだろうか。

なぜ町会名に「宮田」という名称が使用されているのだろうかと調べてみたところ、かつての東京府南葛飾郡吾嬬町に大字小村井字宮田が存在していたことを突き止めた。

これ以上のことは分からなかったが、おそらくこの字名「宮田」が町会名として今も残っているのだろう。

「小村井(おむらい)」は東武鉄道亀戸線の駅名として残っている。

 

宮田町会 理事

鮮やかなブルーだ。

このような理事のプレートは初めて見た。

理事を交代するときは、このプレートを外して、新しい理事に渡すのだろうか?

 

宮田町会 掲示

 

宮田町会 安全・安心防災マップ

安全・安心防災マップは、京島地区内に配備されている消火器や簡易消火機材等の防災設備、火災時水栓提供宅等を記載しており、町会を通じて全戸配布しています。また、2年ごとに更新作業を行っています。(京島地区まちづくり協議会のあゆみ(40周年記念誌)より)

東京都都市整備局による2018年の評価では、都内の市街化区域5,177町丁目の中で京島二丁目・京島三丁目は、地震に対する建物倒壊危険度がそれぞれワースト1・ワースト2に挙げられているようだ。

 

宮田通り

現在、中居堀通りに面して向島警察署がある。1917年(大正6年)請地府道(平井道旧たから通り・地蔵坂通り続き)から警察署南横の仲居堀宮田橋までに道を作った。その後、1921年(大正10年)までには(大正10年の地図に初出)中川平井の渡し場付近葛西川村まで延長させた。その道を宮田通りと呼んだ。

十間橋通りの文花3丁目バス停から向島警察署の南側を通り中居堀に架る宮田橋を渡り、更に明治通りを越え平井橋まで行く道「宮田通り」は1921年(大正10)年の第2回修正図には記載されている。
これは1918年(大正7年)に地元地主有志が自分の土地を無償で提供して急遽作った吾嬬町最初の幅員3間(5.4メートル)道路である。しかし、平井橋のたもとまでは達していなかった。1917年(大正5年)修正図をみると、葛西川地区は既に家屋が結構建ち並んでいて、古い村落でもあったので土地提供に難しさがあったのかもしれない。
その後、平井橋まで直接達する道が出来たのは地図上では戦後の1958年(昭和33年)第2回修正図が初出である。遅れた理由として考えられるのは、平井橋の鋼鉄橋が1942年(昭和27年)12月に架け替えられている。その関連から平井橋へ直通する平井通りを貫通させたと考えられる。

愛宕神社で発見した旧町名

最近は邪道かもしれない旧町名探索に目覚めた。

神社仏閣は旧町名の探索がメインの目的で訪問するのではないので、たまたま発見したということにしておこう。

未だに自分が未見の旧町名が新たに発見されている事実に驚きは隠せないが、いずれは東京23区内の王道の旧町名の痕跡は探し尽くされることだろう。

そこで、旧町名には変わりないので、他の方に先駆けて?このようなものにも積極的に目を向けていきたい。

どこかで書いたような気がするが、忘れた。
還暦を過ぎたおじさんのあるあるということで気にしないでもらいたい。

もう既に、他の方が紹介しているものもあるかもしれないが、できるだけ重複しないように紹介できればと思っている。
もし重複していたら、ご容赦いただきたい。
これも年のせいとしておこう。

 

愛宕神社の鳥居と男坂

あまりこの階段を上ることはない。
最近は別なルートから登り、上から下ってくることが多い。

本当に曲垣平九郎は馬で駆け上がったのか?と思っていたら、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライして、成功している方が何人かいたらしい。
明治15年石川清馬(セイマ。宮城県出身
大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった
昭和57年・渡辺隆馬(ワタナベ リュウマ。スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番にて。

本当だったんだ!

神社では、男坂を馬で上下するのに成功された方の絵や写真を見ることができるらしい。

 

昭和8年(1928)建立、ブロンズ製狛犬

 

この狛犬の台座の裏側にあった。

 

発見日  2022年5月10日

発見場所 東京都港区愛宕

この狛犬を献納した方は芝區(現港区)ではなく品川區の方だった。

 

 

①愛知県西加茂郡猿投(さなげ)村大字越戸(こしど)字浪岩七十三番第二番地

猿投は「さなげ」、越戸は「こしど」と読む。

歴史
1878年明治11年
加茂郡東加茂郡西加茂郡に分離される。

1889年(明治22年)10月1日
舞木村、乙部村、亀首村、猿投村、加納村、本徳村が合併し、広沢村となる。
越戸村、花本村、荒井村、四郷村、御船村が合併し、上郷村となる。
西枝下村、西広瀬村、松峯村、押沢村、藤沢村、富田村、上川口村、下川口村、御作村が合併し、富貴下村となる。

1906年明治39年)7月1日
広沢村、上郷村、および富貴下村の一部が合併し、猿投村となる。

1953年(昭和28年)4月1日
猿投村が町制施行して猿投町となる

1967年(昭和42年)4月1日
猿投町が豊田市編入される。

 

地名の由来

諸説あるので、書き出してみた。

サ・ナゲは狭薙(さ・なぎ)の転にて、大雨のたびに表層が崩れる山を表現した地名と推察される。

猿投山(さなげやま)の山名の由来
山麓の猿投神社の社蔵文書には、「景行天皇伊勢国へ赴いた際に、かわいがっていた猿が不吉なことを行ったので、海へ投げ捨てた。その猿が今の猿投山に籠もって住んだとされることから、"猿投"と呼ばれるようになった」とされている。

全国的に見て「猿」のつく地名には2つのパターンがあるようだ。1つは「猿」は単なる当て字で「サル」は「峡ル」「去ル」に由来するという説。地形が狭くなっているところからきたと考えられる。
もう1つは文字通り「猿」にちなむという説。
『名古屋「駅名」の謎』の著者 谷川彰英氏は後者だと考えているようだ。
上の猿投山(さなげやま)の山名の由来にある通りで、その昔景行天皇が伊勢に行幸した際、可愛がっていた猿が不祥事を起こしたので、伊勢の海に投げ込んだところ、鷲取山に逃げ込み、そのことから「猿投山」という名前がついた。日本武尊の東征の際、三河国から武士が従って功績を挙げたが、あとで聞いてみると、それは猿投山に逃げ込んだ猿であったという、伝承が残されているということを根拠にしているようだ。

 

東京市品川区北品川三丁目二百三一番地

1889年(明治22年)5月1日
町村制施行により現在の品川区の領域では以下の町村が誕生。
東京府荏原郡:品川町、大井村、大崎村、平塚村

1908年(明治41年)8月1日
大井村が町制施行して大井町になる。
大崎村が町制施行して大崎町になる。

1926年(大正15年)4月1日
平塚村が町制施行して平塚町になる。

1927年(昭和2年)7月1日
平塚町が改称して荏原町になる。

1932年(昭和7年)10月1日
上記4町が東京市編入され、品川町、大井町、大崎町の3町域をもって(旧)品川区が、荏原町の町域をもって荏原区がそれぞれ誕生。

1947年(昭和22年)3月15日
東京特別区制実施により、旧・品川区地域と旧・荏原区地域により特別区としての品川区が発足

1967年(昭和45年)2月1日
住居表示により北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1より北品川1~6丁目が成立。

 

③新橋烏森町

「新橋烏森町」という旧町名はなかったので、新橋にある「烏森町」という意味なのであろう。

『新撰東京名所図会』には「又右の石垣には新橋伊勢源と刻し、之に次ぎて、新橋烏森町の芸妓亀鶴屋米吉以下十一人の名を刻したり。」と記載されている。

右の石垣と記載されているが、鳥居側から見ると左側のものである。

 

歴史

1872年(明治5年)
「烏森」という町名が起立される。

1932年(昭和7年
「烏森町」は「日影町1丁目」、「芝口2丁目」に「官有無番地」を合わせて「新橋2丁目」となる。

烏森という地名を残すものは烏森神社とJR新橋駅の出入り口案内だけとなった。