歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

琺瑯町名看板&レトロ電柱 松戸市小根本20

ちょうど2年前に発見したもの。

まだ残っていてくれた。

よかった!

 

レトロな電柱に琺瑯町名看板が設置されている。

 

発見日  2020年10月1日(再訪日2022年9月29日)

発見場所 千葉県松戸市小根本

広告主は丸愛

10ヵ月払い、洋装・呉服 家具・百貨
TEL(88)7111
北千住電車通

とある。

 

調べたところ、下記の会社が該当しそうだ。

株式会社丸愛(マルアイグループ)

大正13年に北千住の地に月賦百貨店として創業した丸愛。歴史のある同社は、現在マルアイグループとして飲食店のフランチャイズ経営やカラオケやボウリングなどのオリジナル店舗を運営する企業へ。地元に根付いた企業として、地域の発展に貢献している。

【事業内容】
◇不動産、駐車場賃貸・管理
◇「TULLY'S COFFEE」「びっくりドンキー」など飲食店のフランチャイズ経営
◇「カラオケステーション」「マルアイボウリング」など直営のアミューズメント施設運営

百貨店から事業展開して成功しているようだ。

 

「北千住電車通」は、国道4号線路面電車が走っていたため、「電車通り」と呼ばれていたらしい。

 

実は丸愛が広告主になっている琺瑯町名看板をもう一枚知っている。

下記だそうだ。

これは荒川区のものとなっている。

 

荒川区は足立区の隣の区なので分かるが、松戸市にまで進出していたとは。

 

2枚の琺瑯町名看板を並べてみよう。

このような比較をするのは自分位であろう。

左側の許可のところが、東京都と千葉県だからか異なっている。

電話番号に注目すると、荒川区のものは新館の電話番号が追加されており、また、松戸市のものは市内局番が2桁の「88」、荒川区のものは3桁の「881」となっている。
ということは、松戸市のものの方が、古いものと考えられる。

東京都の市外局番「03」がないのが気になるが、そんなのは、まあいいだろう。

 

と思っていたが、急に話題が変わる。

全然関係ないけど、「03」が使われているのは、東京23区内だけだと思っていないだろうか?

狛江市も全域が市外局番が「03」なのだ。
更にまだある。
調布市にある桐朋学園大学仙川キャンパスは市外局番が「03」。ほか、入間町・国領町8丁目・仙川町・西つつじヶ丘2丁目・東つつじヶ丘・緑ヶ丘・若葉町も市外局番は「03」。
三鷹市は中原2丁目だけが「03」。

いずれも現在の世田谷区側から電話線を敷いた名残として、同じ市域でも市外局番が違っているらしい。

市外局番「03」の話題はこのくらいにしておこう。

 

 

裏側は以前訪問した時は空き地だったと思うが、工事が行われているようだ。

マンションでも立つのだろうか?

でもこの電柱は、工事場所から外れているようなのでまだ大丈夫そうだが、隣の居酒屋の建物が解体されると、撤去されてしまう可能性が高い。

この琺瑯町名看板の所有者は誰になるのだろうか?
電柱の管理者だろうか?

 

レトロ電柱

上部は蔦に覆われていて、全貌が分からない。

上部の確認は冬に来ないとだめだね。

ストリートビューで確認できるけど、自分の目で実物を確認したいではないか。

来年の1月か2月に再訪しようかな。

それまでに再訪するためのいろいろな情報を入手しておくことにしよう。

しかし、それは忘れなければの話で、他にも訪問したいところがあるし、実現できるかどうかは、覚えているかどうかにかかっている。

 

緑色のリース防犯灯のプレートが設置されているし、電線が接続されているので、夜は電気が付くのかな?

 

上のプレートはついているが下のプレートは外されていた。


松戸駅周辺にはこのようなコンクリート製や木製のレトロな電柱がまだ数多く残っている。

調べた方によると20数本あるらしい。

すべてではないが、このレトロ電柱も取材してきているので、いずれ紹介することにしよう。

松戸市探索記録(2022年9月22日、29日)パート1

今回は2回シリーズで千葉県松戸市を探索した時に気になったものを紹介することにしよう。

 

オオイTOKOYAの窓に貼られていた地図。

松戸一・二丁目詳細図

旧町名「三丁目」は発見することができたが、松戸一・二丁目はまだ発見できていない。

 

松戸町案内図

 

いつ頃の地図かわからないが、大井リハツ店として載っていた。

下に現在地と書いてあるところがそうなのだが、見えないので、現地で確認していただこう。

オオイTOKOYAは1887年(明治20年)開業。

 

らかんスタジオ

野口英世?と思って近寄った所、やはりそうだった。

あの特徴ある髪型だ。

2022年10月1日(土)キテミテマツド1Fに、写真スタジオのらかんスタジオ新店舗がオープン!!

明日だ。

 

松戸市立中部小学校創立150周年

1873年明治6年)1月15日
松戸小学校創立(西蓮寺に借家)

1884年明治17年)7月6日
校舎新築落成

1887年(明治20年)2月28日
松戸小学校を、松戸高等小学校と松戸尋常小学校に分離

1908年(明治41年)5月1日
松戸高等小学校を閉鎖、松戸尋常小学校と併置し「松戸尋常小学校」に改称

1942年(昭和17年)3月31日
各校舎分立、「中部国民学校」と呼称

1947年(昭和22年)4月1日
新学制により、「松戸市立中部小学校」と改称

1971年(昭和46年)7月1日
現在地に新校舎落成学校移転

 

宮前湯

1941年(昭和16年)に開業。

建物は1967年(昭和42年)に宮大工の手により建設したもの。

日替りの薬用風呂が目玉のようだ。

 

レトロなものが続く。

 

丸い柱にタイル。

上の方に小さなサインポールがあり、元床屋だということが判明。

 

レトロな新聞店

ここに「県紙 千葉日報」の琺瑯看板があった。

 

たばこ組合加盟店の看板

たぶん初遭遇だ。

 

マンダムのプラ看板

これも今まで見かけたことがないものだ。

アゴに何か付いているよ。」
(言われた当人、アゴに手を当てる)
そこで
「ん〜マンダム!」と言う。

知っている方は、同年代だろう。

 

防火ベル設置の家

今だと「防犯カメラ設置の家」となるだろう。

 

バンドー Vベルト

動力伝動の手段として使われるベルトで、広く普及しているV型の断面形状のベルト。
自動車やスクーター、農業機械のほか、軽負荷から高負荷電動までさまざまな工業機械に使われている。

 

地震だ‼

まだ、三日分までの水、食料は備蓄できていない。

 

松戸市防火協会々員証

 

松戸商工会員

 

地下通路に描かれていた絵

市民会館わきのJR常磐線横断地下道「宮ノ越地下歩道」に、鳳凰(ほうおう)と火の鳥で日本とロシアの友好を表現した壁画「永遠(とわ)の絆」が描かれている。ロシア・サンクトペテルブルクのアーティスト、アガタ・カザンセワさんが友人のマリア・ベロアさんと松戸の子供たち、ボランティアの手伝いで描いたそうだ。

 

戸定歴史館 坂川周遊マップ

水戸藩最後の藩主・徳川昭武が建てた戸定邸の敷地の内、約三分の一は戸定が丘歴史公園として整備公開されている。
公園内には徳川昭武と彼の兄徳川慶喜の資料を展示する戸定歴史館、徳川昭武が住んでいた戸定邸(国指定重要文化財)と庭園(国指定名勝)、昭和53年に松戸市が市制施行35周年を記念して建設したお茶室の松雲亭がある。

 

デザインマンホール

オーストラリア固有種のコアラと、松戸市の鳥・ふくろうの親子が寄り添っている姿に、「親の世代も子供の世代もずっとずっと姉妹都市交流が続くように」という願いが込められている。背景には「友情」が花言葉ミモザが描かれている。

 

松戸裁判所前にテレビ局の車が止まっていた。

何か重要な判決でも出るのだろうか?

調べてみたところ、下記を発見。

千葉県柏市内で覚醒剤を所持、使用したとして、覚醒剤取締法違反(所持・使用)の罪に問われたアイドルグループ「KAT―TUN」の元メンバーで動画編集業、田中聖(こうき)被告(36)=柏市大井=の初公判が22日、千葉地裁松戸支部(本間敏広裁判官)であった。田中被告は起訴内容を認めた。

他にも車が数台止まっていたが、そういうことだったのか。

 

右は実がなっているのでたぶんバナナの木、左はギンモクセイの花

ギンモクセイの花は白色で、香りはキンモクセイよりも弱く、花に顔を近づけると感じられる程度だ。

今の季節、バナナはちゃんと育つのだろうか?

 

道端にいた猫ちゃん

近寄って写真を撮ったが、珍しく、逃げられなかった。

 

いつの間にか何かが撮れていた。

何を撮ったのだろう?

自分でも覚えていない。

電話番号プレート 茨城県古河市

都内ではあまり見かけないが、地方では電話番号プレートをよく見かける。

 

今回は古河市で複数の電話番号プレートを発見したので紹介しよう。

古い民家に設置されていることが多い。

 

発見日  2022年9月19日

発見場所 茨城県古河市

 

八番

プレートではないが、酒造会社に古い電話番号があった。

 

111番

二種類設置されていた。
右側のものは、あまり見かけないタイプだ。

 

208番


268番

二種類設置されていた。

 

324番

 

477番

 

646番

陸軍境界石 港区赤坂五丁目

赤坂サカスからTBS、赤坂パークビルの一帯には、敗戦まで近衛歩兵第三聯隊の駐屯地があった。

円通寺坂通にその痕跡と思われる陸軍の境界石があるので紹介しよう。

 

発見日  2022年9月13日(再訪日2022年9月27日)

発見場所 東京都港区赤坂五丁目

 

①「鈴振稲荷」の案内板の下 港区赤坂5-1

写真に矢印か丸で囲めれば分かりやすいのだが、利用している写真ソフトでのヤリカタガワカラナイ。 → ペイントでやればいいことがわかったが、次回からにしよう。

 

左側面

正面

少しだけ頭を出しているが、ほとんどが地中に埋まっており文字が読めない。
しかし、石の質・サイズ、設置場所から考えると陸軍境界石の可能性が高い。

 

伊藤園自動販売機の右下 港区赤坂5-1

 

陸軍と彫られている。

円通寺坂の一般道に出る営門(東通用門)付近のもの?

以前は、コンクリート壁に同化する形になっていたそうだが、周辺工事により露出することになったそうだ。

そのおかげで確認できるようになった。

 

③区営住宅「シティーハイツ 一ツ木」前 港区赤坂5-2

 

陸軍省所轄まで読める。
たぶんこの下に「地」があって、全体で「陸軍省所轄地」と書かれているのだろう。

陸軍用地の境界石と陸軍省所轄地の境界石の違いは何だろう?

設置時期の違いなのだろうか?

 

元は何本設置されていたのだろうか?

設置間隔はどのくらいだったのだろうか?

といろいろ気になることがあるが、調べた限りは、わからなかった。

 

近衛師団歩兵第三連隊等の痕跡については、別な記事で書く予定だ。

 

円通寺

元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。

 

港区立円通寺坂公園


公園にいたバッタ

 

鈴降稲荷神社

鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、仲殿町一体がその氏子であった。元禄八年、この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月四日徳川家の武運長久を祈願したお札を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治十三年社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治二十五年内陣を土蔵造りとしたが大正十二年の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正十四年赤坂氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
往古からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神七歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。
又一説には天正十年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して、四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという。

 

この鈴降稲荷神社は、NHK朝ドラ「ひよっこ」のヒロイン(谷田部みね子)が働いていた赤坂の洋食屋「すずふり亭」の裏にあったお稲荷さんのモデルとされている。

電力プレート 番外編

今回は電力プレートの紹介となるが、今まで紹介してきたものと別なタイプのものである。

電力プレートは旧町名関連のものがメインであるため、このような電力プレートはあまり取り上げられてこなかったと思う。

自分だけがそう思っていて、すでに紹介している方がいるかもしれないが・・・。

そういう自分も今まではカタカナ表示のある電力プレートをメインにしてやってきた。

だから、このようなプレートは見かけてもあまり写真に収めてこなかった。

よく見るとユニークな物があることに、今回、気が付いてしまった。

これも多分、自分がユニークだと思っているだけだと思うが・・・。

それはそれでいいのだ。

 

発見日  2022年9月27日

 

発見場所 東京都港区六本木七丁目

1段目
上段 152
中断 81
下段 社章? 港

下段のマークは東電の社章なんだろうか?

 

2段目、3段目の縦長の楕円のものは初めて見たかもしれない。
上段 170
中断 2段目 7 6 3段目 7 5
下段 東電?

下段の「電」みたいな字は見たことがないが、「電」でいいのだろうか?

 

発見場所 東京都港区赤坂五丁目

このタイプも初めて見たかもしれない。

上段 街
中断 19895
下段 銀座 旧社章 支社

電力プレートにある”街”は、街灯を意味しているらしい。

 

他にも種類があるかもしれない。

今後の探索時には、このような別タイプの電力プレートについても注目していくことにしよう。

旧町名 港区麻布龍土町

今回は、再訪(2022年9月27日)して無事を確認することができた港区の旧町名「麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)」を紹介することにしよう。

 

発見日  2021年2月6日

発見場所 東京都港区六本木七丁目

 

①港区麻布龍土町七四番地

 

②港区麻布竜土町四十一番地

文字が消えかかっている。

こちらの「りゅう」は「竜」になっている

 

竜土町会と竜土自治

調べたところ、竜土自治会は存在していないかったので、竜土自治会とあるが、誤りか?

 

旧町名由来板

これは六本木西公園に設置されている。

 

昭和20年代の港区地図

 

現代(平成18年)の港区地図

10年以上前の地図だが、大使館、公園、学校などあまり変わりそうもないものが掲載されているので、ほとんど残っているような感じがする。

変わっているものを探してみたい気もするが、それほど暇でもない。

ブログの記事を書かなければ。

 

旧町名由来

竜士町の旧地は、芝愛宕下 (現在の愛宕・西新橋付近)から西久保(現在の虎ノ門付近)あたりです。 旧地は入江の浜で、漁人が多く住んでいたので猟人村と呼ばれていました。 元和(1615~1624) のころ御用地となったので、麻布領のうちに引き移り、村名を竜土と改めたといいますが確かではありません。 後に百姓町屋となり町名を麻布竜土町というようになりました。

別説
六本木天祖神社は、至徳元年(1384)芝西久保の飯倉城山に創建されたと伝えられる。毎夜、品川沖から龍が燈明を献じたため、龍燈山と呼ばれるようになった。これが転じて龍土村の名が起こり、当社も龍土神明宮と呼ばれるようになった。

 

歴史

1878年明治11年)11月2日
大区小区制廃止、郡区町村編制法施行により、東京府麻布区が置かれる。

1889年(明治22年)5月1日
 市制施行により、東京府東京市麻布区となる。

1943年(昭和18年)7月1日
 東京都制施行により、東京都麻布区となる。

1947年(昭和22年)3月15日
 芝区、麻布区および赤坂区の区域をもって港区が発足。同時に旧区域の町名に「麻布」の冠称がつけられる。

1967年(昭和42年)7月1日
住居表示の実施により、現行の六本木七丁目に編入となり消滅。

 

この廃屋は、元「大八ラーメン」。

フェンスに覆われていたが、まだ解体されていなかった。

1970年営業開始、1999年1月30日に閉店。

カウンター10席のみのこじんまりした店だったようだ。

旧町名&町会会員プレート 葛飾区柴又町

今回は葛飾区の旧町名「柴又町」と町会会員プレートを紹介しよう。

 

発見日  2022年9月26日

 

葛飾区柴又町二丁目六〇三番地

発見場所 東京都葛飾区柴又五丁目

店舗の裏口と思われるところに設置されていた。

表札ではないが、旧町名が書かれていれば合格なのだ。

 

次に紹介する2枚の表札は完全版ではないが、今のところこれらしか発見することができていない。

 

葛飾区柴又町〇丁目〇〇〇番地

発見場所 東京都葛飾区柴又三丁目

旧番地の上から現在の番地が上書きされている。

 

葛飾区柴又町〇丁目〇〇〇番地

発見場所 東京都葛飾区柴又五丁目

町の文字が見えないが、柴又町時代のものと判断していいだろう。

シールが貼られ、現在の番地が書かれている。

 

④柴又町会会員プレート

上部の柴又のロゴ?は「又」の字が「柴」の四方を囲んでいるようなデザインになっているように見える。

 

歴史

1932年(昭和7年
東京市に併合され葛飾区柴又町と名乗り、題経寺界隈を1丁目とし他2および3丁目を設けた。

1967年(昭和42年)
住居表示の変更が行われ、同区新宿町4丁目の半部を併合。新域に柴又1-3丁目と町名を付し、旧町を同4-7丁目と改め今日に至っている。

 

地名の由来

721年の戸籍に「嶋俣」という地名が書かれている。この「しままた」が「しばまた(芝俣、柴俣、柴又)」に変わっていった。嶋俣の嶋は、土砂がたい積して島のように土地が高くなっている場所のことで、俣は、川が合流したり分かれたりする場所のことだ。嶋俣という地名は、大昔の土地の様子からつけられたと考えられている。

 

柴又と言えば寅さんなので、これを載せないわけにはいかない。

平日だったので、あまり人はおらず、人がいなくなるまでの待ちタイムは、それほどなく、イライラせずに、写真を撮ることができた。

 

寅さんとさくら

寅さんの視線の先にさくらがいる。

 

フーテンの寅

寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで
金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのに
なぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと
哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
いったい何十辺くり返したことだろう
でも 故郷は恋しい
変わる事のない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
――ごめんよさくら いつかはきっと偉い
兄貴になるからな――
車寅次郎はそう心に念じつつ
故郷柴又の町をふり返るのである
      一九九九年八月 山田  洋次


見送るさくら

 さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで
見送ることにする
「いいんだよ、忙しいんだろお前」と
言いながらもその思いやりが
みにしみるほど寅は傷ついていた
 駅前でさくらは立ち止まる
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「ああ」と無造作にうなずいて駅舎に
向かう寅の足がふと止まりふり帰る
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと
改札口にむかう寅
 さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる
冷たい風が吹く中を家路につく

 

2017年3月25日、『男はつらいよ』の寅さんの故郷である柴又駅の駅前広場にて、
寅さんの妹・諏訪さくらの銅像『見送るさくら』像の除幕式が行われた。

1999年、柴又の駅前に振り返る寅さんの姿を彫った『フーテンの寅』像が設置された。それから、たびたび多くの人から寄せられていたのが、振り返る寅さんの視線の先に見送るさくらさんがいてほしい…という声。そして、寅さんが柴又駅前に立って18年目となった2017年、ついにそのファンたちの願いが実現した!

 

葛飾柴又 寅さんふるさと名言集 〈第8作 寅次郎恋歌〉

「日暮れ時、畑のあぜ道を
一人で歩いていると考えてごらん
庭先にりんどうの花が
こぼれるばかりに咲き乱れている農家の茶の間
灯りがあかあかとついて
父親と母親がいて
子供がいて、賑やかに夕飯を食べている。
これが本当の人間のくらしというものじゃないかね」

 

映画を見たことがない方はいても、寅さんを知らない方はあまりいないのではないだろうか?

自分も父がテレビを見ているとき一緒に見ていた記憶がある。

柴又を訪れると、その頃のことを思い出す。