歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

鎌倉の旧地名「鶯ヶ谷(うぐいすがやつ)」の案内板

北鎌倉駅から鎌倉街道を歩いていると、鶴岡八幡宮付近で下記の案内板を発見した。

鎌倉市は2日間探索しているが、発見したのはこれが初めてだった。

都内ではよく見かけるが、鎌倉市でもこういうのを設置しているんだ。

発見日  2024年4月25日

発見場所 神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目

鶴岡八幡宮境内の西側、県道沿いの巨福呂坂旧道入口付近までの地域を示す旧字名で、江戸時代までは八幡宮の神主(大伴氏)などの屋敷がありました。鎌倉幕府三代将軍・源実朝が、鶯の初音を聞いたことから、この名がついたとされています。
 県道から西に入ると細い石段があり、登っていくと小さな祠があります。「これは志一稲荷」と呼ばれ、僧侶・志一上人を助けた狐が祀られています。上人は訴訟のために九州から鎌倉に来ていましたが、訴訟用の証文を忘れてしまいました。それを上人に仕える狐が一夜のうちに九州まで取りに帰ったことで、訴訟に勝った話が伝えられています。当時の稲荷信仰を伝える神社です。

まだ存在しているのか調べてみたところ、下記が設置されていることが分かった。

千葉ヶ谷(ちばがやつ/扇ガ谷一丁目)
寺中(じちゅう/極楽寺三丁目)
三堂(さんどう/二階堂)
長楽寺(ちょうらくじ/長谷一丁目)
宅間(たくま/浄明寺二丁目)

この辺りは探索していないところだった。

だから発見することができなかったのか。

次回訪問した時は、探して見ることにしよう。

乱橋と旧町名「鎌倉市乱橋材木座」と「神奈川縣鎌倉郡鎌倉町乱橋材木座」

小町大路を歩いているといくつか橋があった。

その中のひとつ。

1mほどの長さ。

小さい橋だなあ、と言うのが第一印象。

橋名が刻まれていた。

亂橋

むむ、読めない。

乳橋?

違うよなあ。

裏面

明治の文字しか解読できない。

他の石標に「明治四十三年十月建立 鎌倉保勝會」と刻まれているものがあったので、それと同じなのかもしれない。

橋のたもとに市内でよく見かける史跡案内の石碑が建てられていた。

正式名称は「史蹟指導標」というらしい。

いくつかの団体が建立していたようだ。

大正6年(1917) から大正10年(1921)までの鎌倉町青年会が16基。

大正11年(1922) から昭和14年 (1939) までの鎌倉町青年団が52基。

昭和15年(1940) と昭和16年 (1941) の鎌倉市青年団が6基。

昭和31年(1956) の鎌倉友青会が3基。

大正期の鎌倉同人会が3基。

合計80基

見かけるたびに撮ってはいるが、まだまだあることがわかった。

「近代鎌倉の青年団による史蹟指導標の建碑」という資料に所在地が載っていた。

これも全部探して見たくなった。

ちゃんと歴史も味わいながらね。

さて、これであの字を「乱」と読むことが分かった。

この石碑には、

乱橋又濫橋ト作リ 一石橋ノ名ナリ 橋ノ南方ニ連理木アリテ名高シ 東鑑ノ宝治二年六月ノ条ニ 十八日寅刻 濫橋ノ辺一許町以南 雪降リ其ノ辺霜ノ如シナヨアリ 辻町ト材木座トヲ境スル細流ニ架セル逆川橋ト共ニ鎌倉十橋ノ一ナリ

書かれている。

何となく意味は分かる。

乱橋は材木座の北東から西へ流れる滑川に注いでいる小川にかかる石橋で、橋の名の由来は、元弘3年(1333年)新田義貞の軍勢が鎌倉へ攻め入ったとき、幕府の防御線がこの橋のあたりで崩れて乱れ始めたので、乱橋と呼ぶようになったと一般的には言われているが、『吾妻鏡』には新田義貞の鎌倉攻めより前の1248年(宝治2年)に濫橋の名が出ており、滑川の支流の氾濫が由来ともいわれている。

鎌倉十橋(かまくらじっきょう)は、十王堂橋、勝ノ橋、裁許橋、針磨橋、琵琶橋、夷堂橋、筋違橋、歌ノ橋 逆川橋、乱橋のことを指す。

この時は、当然のことながら、この後に旧町名の痕跡を発見できるとは、夢にも思っていなかった。

でも、探索している時は見つかるといいなと言う淡い気持ちだけは常に持っている。

橋を後にして先へ進む。

そうすると店の中に赤いものが見えた。

あれだった。

そう、たばこ販売店琺瑯看板。

中に人の気配がないようなので、こそっと写真を撮らせてもらう。

乱橋材木座

さっき見た乱橋と関係がある町名か?

旧町名については帰ってから調べることにして、とにかく旧町名の発見に大興奮する。

しかし、撮った写真を見ると手前の防虫網に焦点が合ってしまっていた。

こんなことがあるんかい。

当然、読めない。

もう1枚撮ってみたが、それもよく撮れていない。

あまり長居をしていると怪しまれる。

帰りに寄ることにしよう。

これを発見しただけで舞い上がっていたのだが、更に道を進むと、店の中に青い塩小賣所の琺瑯看板があるのが目に入った。

近づいて見ると、その上に煙草小賣所の赤い琺瑯看板があった。

塩小賣所には塩小賣人の住所、氏名が書かれていなかった。

しかし、煙草小賣所の住所を見て驚いた!!

なんと!!「鎌倉郡鎌倉町」時代の"乱橋材木座"だった。

鎌倉市の歴史を調べてみよう。

1894年(明治27年)7月7日
西鎌倉村および東鎌倉村が合併して、町制を施行し鎌倉町が発足する。

1939年(昭和14年)11月3日
腰越町と合併、市制を施行し鎌倉市となる。

とある。

ということは、これは1939年(昭和14年)以前、ということは戦前のものだ。

自分的には久しぶりの大物の発見!!

乱橋材木座には上河原、下河原、蔵屋敷、能蔵寺、弁ヶ谷、中島、門前の小字があったそうなので、これに小字が付いていれば、更によかったけど。

贅沢は言わない。

この先も行きたかったのだが、そろそろ帰りの時間かな。

先ほどうまく撮れなかった場所へ戻る。

防虫網がないところがあったので、撮り直す。

よかった、無事、任務完了!

さて、旧町名「乱橋材木座(みだればしざいもくざ)」について調べてみよう。

『新編相模国風土記稿』によると、材木座村はもともとは一村であったのが、後に乱橋村と材木座村の二村に分かれたとする。だが、以後も乱橋材木座村として一括して扱われていたようである。

1889年(明治22年
乱橋材木座村は長谷・坂ノ下・極楽寺の各村と合併し、鎌倉郡西鎌倉村の大字乱橋材木座となる。

1939年(昭和14年)11月3日
鎌倉町と腰越町が新設合併したうえで市制を施行し、鎌倉市を発足し、乱橋材木座鎌倉市の町名となる。

1964年(昭和39年)10月1日
住居表示が実施され、乱橋材木座由比ガ浜2丁目~4丁目および材木座1丁目~6丁目となった。

大波踏切の注意看板 in 埼玉県蓮田市

蓮田駅から線路沿いを歩いていた。


発見日 2024年4月1日

発見場所 埼玉県蓮田市蓮田三丁目

大波踏切という名前の踏切があった。



普通の人なら通り過ぎてしまうかもしれない。

「あちら側優先」と「向う側優先」、表現が異なる注意看板があった。

手書きっぽい「向う側優先」の方が先に設置されたと思われる。

2枚設置されているのは、右折車でも左折車でもよく確認できるようにするためだろうか?

踏切を渡った反対側の看板には何が書かれているのかがとても気になった。

左側の「向う」は手書きだし、右側の「あちら」の反対語が書かれているのではないかと予想する。

線路の先を見ながら、考えてみよう。

蓮田駅方面



東大宮駅方面


両方とも直線が続いている。

正解は、


考えるまでもないが、こちら側だった。

更に進むと草原が広がっており、ヤギが食事中だった。

 

亀戸天神の満開の藤の花と東京スカイツリー

亀戸駅から亀戸天神へ向かう途中、歩道にあったタイル絵。

藤の花が満開になっている時期にタイミングよく訪問できたのは初めてかもしれない。

事前に下調べはしていたが、その下調べをしたタイミングが良かった。

しかし、天気は曇り。

結構厚い雲が空を覆っていたが、幸いに雨にはならなかった。

天気が良くて満開のタイミングで訪問できればよかったのだが、そううまくはいかなかった。

訪問日 2024年4月23日

亀戸天神 御本殿

身動きできない程ではないが、かなり人出が多かった。



太鼓橋 女橋の上、人の往来が中々途切れない。やっと途切れたと思ったら・・・。

白く写ってしまった。

撮り直し。

人が写りこんでしまっていた。

ここからは満開の藤の花とスカイツリーとのコラボを楽しんでいただきたい。

空の色が残念。

晴れていたらもっと映えていただろうに。

藤の花に囲まれたスカイツリー



上にも下にも藤の花


藤の花がスカイツリーの上の方を支えているように見える。



なんじゃもんじゃの木と藤の花と東京スカイツリー


なんじゃもんじゃの木はあちこちで見かけることがあるのだが、満開になっていたものを見たのは初めてかも。

なんじゃもんじゃの木
正式名 『ヒトツバダゴ』 モクセイ科
日本では岐阜県・愛知県の一部、長崎県対馬の極めて限られた場所に自生しており、それぞれの自生地は天然記念物に指定されています。 六月下旬ごろに白く細い筒状の花が木全体に群がって咲き、対馬では『ウミテラツ』と呼ばれ 海面が真っ白になるそうです。
※「その地域ではほとんど見られないため、誰も名前を知らない植物」として『なんじゃもんじゃ』 と呼ばれているという説があります。
令和三年十二月二十五日奉納

猿回しは以前見学したことがあるのだが、今回は藤の写真撮影に夢中になっていたので、人の歓声は聞こえたものの見学しなかった。

帰りがけによると、お姉さんが猿の毛づくろいをしていた。

瓦葺掛樋跡 in 埼玉県蓮田市・上尾市

蓮田駅西口にあるはすだ散策

ここに「M.瓦葺の掛渡井」のことが書かれていた。

上尾市(瓦葺)との境の綾瀬川で見沼代用水が川の下へ潜っています。水の立体交差でこの用水ができた当時(1728年)は木製の掛樋が川の上を通り、「瓦葺の掛渡井(かけどい)」と呼ばれていました。見沼代用水は、農業用水であると同時に江戸への航路でした。こ のため、掛渡井は長さ40m幅14mもあり、船も通ることができたようです。現在見られるものは、明治41年に、レンガと鉄で造られた掛樋の名残です。
*掛樋:河川の上を通る「川の立体交差」。

煉瓦好きの自分(いつからそうなったのか不明)としては、興味をそそられたので、訪問してみることにした。

訪問日 2024年4月1日

蓮田市



右 1909年(明治43年)建立の「改修懸樋碑記」


煉瓦掛樋の竣工を記念したもの。

碑文によると、工事の起工は明治40年4月で、竣工は明治41年3月となっている。

左 1916年(大正5年)建立の「懸樋改修碑記」

明治43年の大洪水で破壊された掛樋の修復を記念したもの。

見沼代用水


埼玉合口二期事業

見沼代用水路東西竣功記念碑

埼玉県知事 畑和 書

碑文
見沼代用水路は、徳川八代将軍吉宗の新田開発の命により、享保12年(1727年)見沼溜井を干拓しこれに代わるものとして水源を利根川に求め、行田市大字須加地先に取水口を設け長大な水路が開削され、爾来260有余年に亘り、埼玉県行田市他18市6町2村及び東京都足立区の沃野に潤沢な農業用水を灌いできた。
然るに、昭和30年前後より日本経済のめまぐるしい進展が首都圏に都市用水需要の増大をもたらし、これと相俟って東京オリンピックの開催により水資源の開発が急務となった。これに対応するため、埼玉合口1期事業として昭和43年利根大堰が建設され、農業用水取水口を統合し、埼玉県及び東京都への都市用水の供給を可能ならしめた。
その後も経済発展は持続し県南地域の都市化は農地の潰廃を早め、農業用水を都市用水に転用する機運が急速に高まった。
一方これに係る施設及び用水路は、老朽化と機能低下が著しく営農上支障を来たし、これを踏まえ組合員27000余名の深い理解と同意を得、水利用の合理化と、安定供給を目的とし埼玉合口2期事業計画が樹立され、昭和53年度より着工の運びとなった。
なお、利根大堰より大宮市東宮下地内大宮第2調節堰及び浦和市上木崎地内正樹院橋上流地点までは、水資源開発公団が施工し、同地点より東西縁下流川口市地内に至る区間は、埼玉県直轄工事として、県営及び団体営かんがい排水事業、県単見沼下流農業用水合理化事業にて実施した。この間幾多の艱難辛苦を克服し、先人が築いた偉業とその意を体し、近代技術の粋を集め昭和63年度をもって歴史と伝統を誇る用水路の竣功の喜びを見るに至った。
本事業実施に際し、国・県・東京都・関係市町村の御指導御援助と、組合員各位の深い理解と御協力に対し深甚より感謝の意を表し、本事業の使命達成はもとより沿線住民の安らぎと憩いの場として活用されんことを祈念し茲に概要の一端を刻す。

平成元年3月吉日 撰文 見沼土地改良区理事長 渡辺一郎

事業概要
水資源開発公団営事業
総事業費:524億円
基幹線水路31.7km
東縁用水路6.2km 西縁用水路10.6km

県営かんがい排水事業
総事業費:16億5500万円
東縁用水路3.2km 西縁用水路6.0km

団体営かんがい排水事業
総事業費:21億100万円
東縁用水路7.0km 西縁用水路3.5km

見沼下流農業用水合理化事業
総事業費:37億500万円
東縁用水路9.7km 西縁用水路1.3km

瓦葺掛樋跡



先端まで行こうと思ったが、万が一落ちたら嫌なので、断念する。

蓮田市側には「瓦葺掛樋跡」に関する説明板は設置されていなかった。

橋の上から



上尾市

蓮田市側から



立合橋を渡り、上尾市

枯木に覆われて、全貌を確認することができない。



掛樋史跡公園


掛樋に接続する旧水路(見沼代用水)の側壁部分の遺構(長さは約20m)が残されていた。

「瓦葺懸渡井官費営繕之真景図」のレリーフ

上尾市指定有形文化財
歴  史  資  料  昭和61年3月31日指定

 このレリーフは平成元年(1989)年に上尾市指定有形文化財「瓦葺懸渡井官費営繕之真景図」(上尾市教育委員会蔵)を参考に制作されたものである。「真景図」(上瓦葺村の黒須家旧蔵)は、明治初期の掛樋の姿を描いたもので、掛渡井、懸樋などとも呼ばれていた掛樋が木製であった頃の様子をよく知ることができる貴重な歴史資料である。
 画面中央を下(北)から上(南)へ流れる綾瀬川の上に木製の掛樋が架けられており、その上を画面左から画面中央に向かって見沼代用水が流れている。用水はこの瓦葺の地で台地の縁に沿って東縁と西縁に分流する。
 見沼代用水と元荒川が交わる場所に設けられた柴山伏越(白岡市)のような川の下をくぐる伏越に対して、掛樋には通船の便があり、舟運にも用いられ、河岸場も存在した。
    平成30年12月 上尾市教育委員会

上尾市登録文化財
記念物(史跡)  瓦葺掛樋跡

上尾市大字瓦葺二八六―三
平成二七年一一月一七日 登録

 「瓦葺掛樋」は、見沼代用水路の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水路と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以後この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々漏水腐食が生じ、毎年のように修理が行われ十年以内の年限で架替も必要であったとされる。
 現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。
 見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流水不足などのため廃止され、綾瀬川の下をくぐる伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立合橋の再建に伴い煉瓦積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。
 なお、現存する煉瓦は上敷免村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。

平成三〇年一二月 上尾市教育委員会

お問い合わせは生涯学習課へ ○四八一七七五一九四九六

刻印は確認しなかったなあ。

ちょっと危険が伴う。

掛樋周辺図(1982年調查時)



満水時の鉄製掛桶(下を流れるのは綾瀬川



見沼代用水周辺図



緑のヘルシーロードと水のふれあいロード

「掛渡井」とは水路橋のことです。見沼代用水が完成した1728年以来、舟運のため綾瀬川の上を木製の掛渡井で渡していましたが、明治41年(1908)にレンガ造り基礎のコンクリート水路橋に改修されました。昭和35年(1960)まで使われた後、現在のように綾瀬川 の下をくぐる伏越に改修されました。使用されているレンガは東京駅などと同じ日本煉瓦製造(深谷市)の物です。

"掛渡井"と"掛樋"、素人の自分、調べてしまった。

同じものだった。

きまぐれ旅写真館(http://fukadasoft2.sakura.ne.jp/)さんの「第6回 埼玉県の煉瓦水門」によると、2002年4月現在と情報はかなり古いが、煉瓦を使った樋門・樋管等は埼玉県では87基確認できたそうだ。この数は日本一らしい。

灯台下暗し。

煉瓦好きの自分としては、どのくらい現存しているかアプデしたい気持ちだが、川は結構駅から遠いところに流れていることが多いので、難易度が高め。

近いところからチャレンジしてみよう。

外濠公園にあった旧東京市時代のもの

どうして外濠公園を散策することにしたのか?

きっかけは?

聞かれているのではない。

自問自答だ。

でも、答えられない。

まだ記事していないが、甲武鉄道がらみか、それとも・・・。

思い出そうとしても思い出せない。

しかし、今回紹介するものを探すことではなかったはずだ。

今回紹介するものは、歩いている時、偶然見つけたものだからだ。

また、読者にはどうでもいいことを書いてしまった。


外濠公園は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅付近までに残る、かつての江戸城外濠(牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠)の千代田区側に位置している。

桜の名所なので、花見客で人出が凄いときもあったが、騒がしくなる前と騒がしさがほぼ去った後に端から端まで歩いた。

騒がしい時も歩いた。スマホを構えていると酔っぱらい親父が邪魔するように横切って行った。
目障りだ、早くどきやがれ!

訪問日 2024年3月25、26、30日、4月6、11、18、20日

新見附橋付近と飯田橋駅に向かう途中に興味深いものを発見した。

新見附橋


明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られた。

現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋。

公園の入口に「東京市外濠公園」と刻まれている石標が2本ある。


写真の右端あたりと左端あたりの入口にそれぞれ設置されている。



右端のもの 新見附橋のすぐそば



桜が入るように撮ってみた。



左端のもの 横断歩道の左側



石標と桜

法政大学前の外濠は、1629 ~ 1636年(寛永6~13年)に江戸城の外濠として掘られたもので、城郭都市江戸の面影を伝えるものとして、国の史跡に指定されている。明治期には外濠の土手に「この土手登るべからず 警視庁」の高札が建てられ、長らく立ち入り禁止区域であった。これを開放したのが昭和初期の法政大学の学生達で、憩の場としての外濠の開放を求めて警察と駆け引きを繰り返す中、校友の市会議員の応援を得ることとなり、その結果、1927年(昭和2年)8 月31日、公園として利用されることになった。現在、「東京市外濠公園」と刻まれた石標が新見附橋脇の入口に残されており、当時、東京市の公園として開園されていた事実を伝えている。

市ヶ谷橋付近入口の石標

古そうな感じだが、東京市の文字はなく、左書きだった。

対岸の外濠公園にあったもの



外濠公園を飯田橋方面へ歩いていく。

階段と古そうな小ぶりの石標がいくつかある。



遊歩道に何か見える。


数m毎に3本だけ佇んでいた。

東京市時代のものと思われるこれらの石柱、灯籠の一部のようにも見えるが何なのだろう?

水飲み場

下の土台みたいな石造物は古そうに見えるけれど、これは東京市時代のものではないよね。

役目を終えた枝を支える支柱


中の骨が覗いている。

左端に例の謎の石造物が見える。

桜との共演



桜と電車



桜と菜の花

桜のシーズンなのでいい写真が撮れた。(自己満足)

西之町町式目と西之町で発見した町名表示板 in 京都市東山区

2024年4月9日、早朝の風雨の強い中、三条駅から目的地に向かうまで、周辺を散策。

白川沿いの桜


天気は良くなかったが、川の流れに浮かぶような満開の桜に目を奪われる。

青もみじ


今まで青もみじは撮影対象としてあまり考えてなかったが、この季節の主役のひとつと思えるようになってきた。

桜の花びら付きの注意看板

川沿いをゆっくり探索したいところだが、時間が押しているのと風雨のため、急ぎ足になる。

しかし、気になるものは気になるよね。

こんなものを発見。

西之町町式目

西之町の町式目(規則)
平成二十五年一月実施
西之町まちづくり協議会

一、西之町の町式目の基本特性

①「祇園縄手・新門前歷史的景観保全修景地区(平成11年3月指定)」及び、「新門前通西之町地区地区計画(平成16年11月認定)」、「地域景観づくり協議会(平成24年7月認定)」
私達西之町の住民は、この認定に誇りと責任を持ち、町の魅力と活力を大切にして後世に受け継いでいきます。

②新門前通西之町は古門前通と共に、「浄土宗総本山知恩院門前町」として約四百年前から職住共存の京文化・建築 ・芸能・古美術を支える家々が集まる個性豊かな町です。
この特性を良く理解した住民で西之町が成りきっていることを内外に知らしめ、この特性を守ります。

③新門前通西之町の伝統行事であり「地蔵盆」は、その良き西之町の固有の文化を毎年、継承・発展させます。

④西之町に住まいする人の弔事や転出、そして新たな転入者は速やかに町内会長に届けます。転入者に対して町内会長は、西之町の特性、規則をよく説明して町内会、地蔵会の加入を勧めるとともに、協力し合って町内運営の円滑化に勤めます。

二、西之町の決まり事
①「防火・防犯・防災」については常から用心に心掛け、万一の時はお互い助け合い、防火、防犯、防災に必要な非常用べル、防犯カメラ等の使用に協力する事。また、三日以上の長期不在・非常用の緊急連絡先は隣近所または町内会長に知らせる事。

② 「美しい町内を保つゴミ出しルール、かど掃き等」は日常生活の大切な習慣としてルールを守りつとめる事。

③「土地家屋の売買、賃貸者の変更」がある場合は、速やかに町内会に知らせる事。

④「反社会的勢力関係者に不動産の権利の取得をさせない」ため、みんなで力を合わせる事

⑤「店舗は夜午前二時から午前六時までは営業をしない事」
但し、駐車場・ガレージ・旅館宿泊設備を除く。
平成二十四年十月現在、右に抵触する店は現行店舗名での営業を承認する。

⑥・「西之町地区地区計画の条例適用地域による建築物等の用途の制限・業種の制限」をよく認識して守る事。
・「新・増築・改築する事業者は設計段階で条例に基づき西之町まちづくり協議会との意見交換」をする事。
・「西之町住民は祇園繩手・新門前歴史的景観保全修景区として京風町家の景観を維持・増進する事を目的とする」事を良く認識し、京都らしい町並みを目指す事。
・「屋外広告物条例に違反する表示や広告はしない事。 看板や表示物については路上にはみ出さない。その素材・ 大きさ・色・形について西之町まちづくり協議会
取り決めを守る」事。

当地域での建築物新築・増築・改築工事には京都市条例によりまちづくり協議会との事前協議が必要です。

お知らせ 西之町の所定内地域で新築・増築・改築される場合は、どなたも計画段階でまちづくり協議会との事前協議が必要です。 

◆手続きと意見交換の流れ
建築主
❘ ⇕ できるだけ早い段階で意見交換後報告書を作成。
❘ 地域景観づくり協議会

京都市
景観に関する手続きをする時に報告書を添付する事。

お問い合わせ先
都市計画局 都市景観部 景観政策課 
TEL(075)222-3397

京都市地域景観まちづくりネットワーク
http://kyotokeikan.net/index.html

■事務局:NPO法人京都景観フォーラム
https://kyotokeikan.org

2011年(平成23年)に取り組みがスタートした「京都市地域景観づくり協議会」制度。
自分たちのまちの景観を、自分たちの手で守ろう。
その想いを持ち、地域の人々が景観まちづくり活動を行う京都市内の下記の11の地域で導入されている。

  1修徳景観づくり協議会
  2先斗町まちづくり協議会
  3西之町まちづくり協議会
  4一念坂・二寧坂 古都に燃える会
  5桂坂景観まちづくり協議会
  6姉小路界隈まちづくり協議会
  7明倫自治連合会
  8仁和寺門前まちづくり協議会
  9京の三条まちづくり協議会
10祇園新橋景観づくり協議会
11嵐山まちづくり協議会

田中瓦店


鬼瓦がたくさん飾られていた。

こちらは飲食店の入口のようだ。

京都ならではの竹細工の門。

保険歯科医の看板



西之町で発見した町名表示板

下京区新門前通大和大路東入 西之町



東山区新門前通縄手東入 西之町


広告主はアケゴコロ。

「アケゴコロ」は伏見の日本酒の銘柄だったらしい。

メーカーであった有井酒造は1995年に酒造業から撤退し、「神聖」の山本本家が銘柄を継承している。
銘柄は、"上撰 明ごころ"と"金判 明ごころ(金文字)"

東山区新門前通大和大路東入 西之町


広告主は東山貸ビル協会

東山区新門前通縄手東入 西之町

広告主は力餅。

力餅は食堂・和菓子店。

その上に青い色が見える。

東山貸ビル協会とコラボのようだ。