歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

外濠公園にあった旧東京市時代のもの

どうして外濠公園を散策することにしたのか?

きっかけは?

聞かれているのではない。

自問自答だ。

でも、答えられない。

まだ記事していないが、甲武鉄道がらみか、それとも・・・。

思い出そうとしても思い出せない。

しかし、今回紹介するものを探すことではなかったはずだ。

今回紹介するものは、歩いている時、偶然見つけたものだからだ。

また、読者にはどうでもいいことを書いてしまった。


外濠公園は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅付近までに残る、かつての江戸城外濠(牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠)の千代田区側に位置している。

桜の名所なので、花見客で人出が凄いときもあったが、騒がしくなる前と騒がしさがほぼ去った後に端から端まで歩いた。

騒がしい時も歩いた。スマホを構えていると酔っぱらい親父が邪魔するように横切って行った。
目障りだ、早くどきやがれ!

訪問日 2024年3月25、26、30日、4月6、11、18、20日

新見附橋付近と飯田橋駅に向かう途中に興味深いものを発見した。

新見附橋


明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られた。

現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋。

公園の入口に「東京市外濠公園」と刻まれている石標が2本ある。


写真の右端あたりと左端あたりの入口にそれぞれ設置されている。



右端のもの 新見附橋のすぐそば



桜が入るように撮ってみた。



左端のもの 横断歩道の左側



石標と桜

法政大学前の外濠は、1629 ~ 1636年(寛永6~13年)に江戸城の外濠として掘られたもので、城郭都市江戸の面影を伝えるものとして、国の史跡に指定されている。明治期には外濠の土手に「この土手登るべからず 警視庁」の高札が建てられ、長らく立ち入り禁止区域であった。これを開放したのが昭和初期の法政大学の学生達で、憩の場としての外濠の開放を求めて警察と駆け引きを繰り返す中、校友の市会議員の応援を得ることとなり、その結果、1927年(昭和2年)8 月31日、公園として利用されることになった。現在、「東京市外濠公園」と刻まれた石標が新見附橋脇の入口に残されており、当時、東京市の公園として開園されていた事実を伝えている。

市ヶ谷橋付近入口の石標

古そうな感じだが、東京市の文字はなく、左書きだった。

対岸の外濠公園にあったもの



外濠公園を飯田橋方面へ歩いていく。

階段と古そうな小ぶりの石標がいくつかある。



遊歩道に何か見える。


数m毎に3本だけ佇んでいた。

東京市時代のものと思われるこれらの石柱、灯籠の一部のようにも見えるが何なのだろう?

水飲み場

下の土台みたいな石造物は古そうに見えるけれど、これは東京市時代のものではないよね。

役目を終えた枝を支える支柱


中の骨が覗いている。

左端に例の謎の石造物が見える。

桜との共演



桜と電車



桜と菜の花

桜のシーズンなのでいい写真が撮れた。(自己満足)