歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

九段小学校東側路地にある折り返し階段とレンガの擁壁

東郷元帥記念公園に立ち寄ると、隣は九段小学校と九段幼稚園だった。

奥に見えているものを紹介したいのだが、別な機会にしよう。

九段小学校の東側に路地があり、階段が見えた。

行ってみることにした。

訪問日 2024年3月30日、4月18、20日

訪問場所 東京都千代田区三番町

3月30日、番町学園通りから上って行ったのだが、4月18日は二七通りから下って行った。
追加で晴れた場面の写真を撮りたかったの。4月20日、晴れていたと思ったら、曇ってきたのよ。でも、皇居の周りを歩いている途中で晴れ間が見えてきたので、遠回りになってしまったけれど、再訪したの。でも、現場に着いた時は曇ってきてしまったのよ。

下から上を見上げたところ。



下階段 右側:階段 4段 左側:スロープ 階段の半分くらい。


階段とスロープの間に手すりあり。

階段の壁 カニをモチーフとしたと思われる装飾がされている。


左側にある四角形の柱は補強のためにあるのかもと思ったが、何だろう?

中階段① 壁


スロープのみかと思えば、一番上に1段ある。

中階段② 右側:階段 19段 左側:スロープ 階段より少し狭い感じ。

間に手すりあり。

上階段 右側:階段 13段 左側:スロープと小階段 


間に手すりあり

階段上からの眺め。



右側に門柱のようなものがあった。



今度は上から下へ、少し周りを観察しながら、下っていこう。

上から下を見下ろす。



踊り場③



階段の右側の壁


擁壁が続いている。

左側は小学校。

中階段②

左側の擁壁は古そう。

踊り場②

正面は民家の玄関。

ここは私有地?

このお宅の左側にレンガの擁壁が覗いていた。

下から上ってくると気が付きにくいかも。



上部分



下部分



中階段①



踊り場①



下階段



番町学園通りからマンションの間を見る。


擁壁がそびえていて、この辺りはスリバチ状になっているのがわかる。

先ほどのレンガの擁壁の先を確認するため右に曲がる(番町学園通りから来た場合)。

右側のアパートと左側の戸建ての間にレンガの擁壁が見えた。



その右側にあるアパートと戸建ての間を見るとレンガではなくなっていた。



三番町の地図(部分)


まだ、九段小学校、幼稚園が書かれていない古い地図。

この地図にも階段が書かれていた。

黒の線が消えているところが気になるが、何もないわけではなく、上の写真で分かるように柵や壁になっている。

こちらは新しい地図

階段と学校の文字が重なってしまっているのが残念。

三番町の町名由来板は東郷元帥記念公園が工事中のため、仮囲いの中でお休み中。

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈(かいわい)には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂(おんまやだにさか)の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(うまや)(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端(ほりばた)近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政(かんせい)五年(1793年)、塙保己一はなわほきいち)が、この地に幕府の許可を得て和学講談所(わがくこうだんしょ)を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」という書物の編纂(へんさん)で知られる学者です。幕末の兵学村田蔵六(むらたぞうろく)(のちの大村益次郎(おおむらますじろう))もこの地に蘭学(らんがく)の鳩居堂(きゅうきょどう)を開きました。さらに明治十年(1877年)には、漢学者三島中洲(みしまちゅうしゅう)が二松学舎(にしょうがくしゃ)(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)などの華族(かぞく)や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦連合艦隊(れんごうかんたい)を率いた東郷平八郎(とうごうへいはちろう)も、明治十四年(1881年)から昭和九年(1934年)までの五十三年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥(げんすい)記念公園になり、四番町(よんばんちょう)との境の坂は「東郷坂(とうごうざか)」と命名されています。
また、「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」で有名な永井荷風(ながいかふう)や、「武蔵野(むさしの)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子(よさのあきこ)の夫、与謝野鉄幹(よさのてっかん)も一時この地に住み、雑誌「明星(みょうじょう)」を創刊しました。
錚々(そうそう)たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。

書きたい記事はたくさんあるのだが、文章の大量生産はできない。

記事が書けないため眠っている写真が貯まる一方。

そして、撮った写真のことも忘れていく。

AIでブログの記事が書けないのかなと最近思い始めていた。

写真だけセレクトして、あとはAIが自動的に文章を書いてくれる、なんてこと。

調べてみると無料で試せるサービスがあることが分かったので、トライしてみた。

MicrosoftのCompose、CopilotというAIでこのタイトルを元に文章を作成してもらった。

それがこれだ。

東京の歴史的な風景を探索する旅は、いつも驚きに満ちています。九段小学校の東側路地にある折り返し階段とレンガの擁壁は、その一例です。この場所は、千代田区に位置し、東京都の中心部にある歴史的な地域の一つです。九段小学校自体は、1903年に設立された歴史ある学校で、多くの変遷を経て現在に至っています。

折り返し階段は、その独特な構造で知られており、周囲のレンガの擁壁とともに、この地域の歴史的な雰囲気を色濃く反映しています。レンガの擁壁は、かつての建築様式を今に伝える貴重な遺構であり、訪れる人々に古き良き時代への思いを馳せさせます。

このような歴史的な場所は、ただの通り過ぎる場所ではなく、そこに息づく物語や、過去への窓口となり得ます。子供たちが通学する道、地域の人々が日常的に目にする風景が、実は多くの歴史を秘めているのです。九段小学校の周辺を歩くことで、私たちは東京の過去と現在をつなぐ架け橋に触れることができるのです。

この地域を訪れた際には、ぜひ折り返し階段とレンガの擁壁に注目してみてください。そして、その背後にある歴史や物語を想像しながら、東京の一面を新たな視点で楽しむことができるでしょう。歴史を感じる旅は、教科書には載っていない学びがそこにはあります。

タイトルだけでそれほど不自然さを感じないこのような文章をわずかな時間で書くなんて、さすがAIだ。

自分はこんな文章は書けないな。

でも、この文章をそのまま採用するかと言うと、そうはならないね。

自分の言葉ではないから、違和感ありまくり。

でも、繰り返し利用しているうちに内容によっては部分だけでも採用してもいいと思えるものも出てくるかもしれないので、少し勉強してみようかな。

西新井大師で牡丹・桜・藤・青紅葉の饗宴を愛でる

ネットで調べていたら、ちょうど牡丹が見頃らしいということなので、訪問してみることにした。

花の季節に訪問するのは初めてかもしれない。

山門は江戸時代後期の建立。

足立の名所・西新井大師
西新井大師は、正式名称を五(ご)智山(ちさん)遍照院(へんじょういん)総持寺(そうじじ)という新義(しんぎ)真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)の寺院(じいん)である。
寺の伝えでは平安時代初め、全国で天災や疫病がはやったとき、この土地を通りかかった弘法大師(こうぼうだいし)が十一面(じゅういちめん) 観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)のお告げでその仏像を刻み、災いがおさまることを祈った。その効果があって災いは去り、この地の人々はお堂を建てて大師作の十一面観世音菩薩像と大師像をまつったという。西新井の地名は、弘法大師が祈祷する際、仏に備える水がないので大地に向かって祈ると新しい井戸がわき出たという伝説にちなんだものと言われる。
本尊は、過去数回の大火でも無事であったため、「火(ひ)伏(ぶ)せの大師」とも称された。やがて利益の期待は、防火から厄除け全般に広がった。江戸時代後期、江戸周辺の名所を紹介した地誌類には、普段の参詣客も多いが、特に毎月21日の縁日には本尊の開帳があって大変なにぎわいであると書かれている。かつて足立区周辺には、西新井大師に向かって「大師道(だいしみち)」 といわれるいく筋もの参詣路があった。
弘法大師伝説にちなむ寺と地名がはじまりと伝わる西新井大師は、江戸から東京を通じて、足立有数の名所として今に至っている。

訪問日  2024年4月16日

訪問場所 西新井大師(東京都足立区西新井一丁目)

ぼたん園

奈良の総本山長谷寺から移植され、西新井大師では文化・文政(1804-30)の頃よりぼたん園が展開された。


うれしいことに無料開放されている。

現在、約百品種2500株植えられているそうだ。



鐘楼堂と牡丹・桜

日米親善
対米十年期間梵鐘について
此の梵鐘は江戸時代作の名鐘の一つに数へられ由緒あるものです。過し第二次世界大戦に於て國家の要請に依り供出されたのであります。
終戦直後米巡洋艦パサデナ号にて米國に持帰り終戦記念品として艦と同名のパサデナ市に寄贈し同市役所玄関口ビーに丁重に飾られていたものであります。
本年六月市及び市議会の決議により日米親善の絆として外務省を通し返還があり戦後十年ぶりに 親日米人ブッシュネル氏、朝日新聞社、大同海運株式会社、東洋実業株式会社等日米両國民の善意のうちにリレー式に運送され、七月二十五日大同海運の高治丸にて無魔海を渡り横浜港にて盛大なる受領式を挙行し、日比谷音楽堂に於て都民の歓迎会に臨み、都内行進後、当山に安着致し、翌二十六日、荘厳なる帰還梵鐘奉迎供養会を厳修したのであります。

昭和三十年七月二十日
           西新井大師總持寺
昭和四十五年六月八日パサデナ市民
来山参詣に際し新たに記す

主役の座は牡丹に移りつつあるが、遅咲きの桜も満開だった。



大日如来尊像

密教の教主にて梵名を摩訶思盧遮那と云う。摩訶は大の義、思盧遮那は日の別名なので大日と訳す。
字宙に遍照する理智の法身体として尊ばれているこの大日如来尊は、修験道に名高い出羽三山の一つの湯殿山大日如来を勧請したもので文政年間の建立である。

真言
おんばざらだどばん

藤は少し早かったようだ。



青紅葉



オオデマリ



塩地蔵

裏は第二ぼたん園

ここに安置の地蔵菩薩は、江戸時代より特にいぼ取りその他に霊験ありと伝えられ、御堂内の塩をいただきその功徳ある時、倍の塩をお返しするところから塩地蔵と申し諸人の信仰盛んなり。

真言
おんかーかーかびさんまえいそわか

塩地蔵覆屋新築工事の設計施工は清水建設だった。


こんなにたくさんの美しい花を一度に観賞できるのは、今の季節だけかもしれない。

旧桜田小学校と旧桜川小学校と旧南桜小学校に咲く桜 in 東京都港区

桜の花が咲く今の時期にしかできない企画。

探索中に桜の木があると、桜の花が咲いたら、発見物とコラボ紹介したいので再訪問しようと思うのだが、1年もたつとどこにあったっけと忘れてしまう。

今回は、以前下記で紹介した旧小学校跡地に桜の木があったことを思い出し、少し遅かったが、再訪し、花見をしてきた。

citywalk2020.hatenablog.com


訪問日 2024年4月11日

訪問した順に紹介していくことにしよう。

①旧桜田小学校



桜田公園


関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。
東京市はこれを踏まえ、震災の焼失区域において、震災復興公園として52か所の小公園を整備しました。
小公園は、小学校に隣接して整備され、近隣住民の憩いの場や地域コミュニティの中心、地域における防災拠点のほか、校庭の延長や教材園などとしての役割を担ってきました。
また、震災復興のシンボルとなるとともに、後の都市公園や児童公園のモデルとなりました。
港区内に整備された震災復興公園としての小公園は桜田公園と南桜公園の2か所でした。
桜田公園は、1931年に桜田小学校に隣接して整備され、園内中央の広場は学校校庭と連続して利用されることも想定されていました。

整備当時の桜田公園

桜田小学校は1991年に廃校となり、港区立生涯学習センターに生まれ変わりましたが、桜田公園は整備当時から改修を経て姿を変えながら、地域住民や来園者の憩いの場として引き継がれています。

②旧桜川小学校



③旧南桜小学校

学校に植えられていた桜が残されているところもあり、卒業生にとっては、もしかしたら入学式や卒業式で見た懐かしい桜かもしれない。

鎌倉市で発見した電力プレート

鎌倉市も当然東京電力管轄なので、電力プレートは存在しているだろうと思っていた。

今回、期待していなかったにもかかわらず、偶然2枚も発見することができた。

目撃情報はなかったと思われるので、ホント偶然の出会いでしかない。

偶然が重なると必然になる、と言うことはない。

この日はたまたま運が良かったのである。

発見日 2024年4月15日

木製の電柱に設置されていた。

①オオマチ-79

発見場所 神奈川県鎌倉市長谷一丁目


下のタイプのものは電柱に付いているのを見たことがある(木製電柱は初めて)が、上のタイプのものが電柱に付いているのを見たのは初めてかもしれない。

②ユキシタ-3

発見場所 神奈川県鎌倉市雪ノ下一丁目


屋根の下にあるおかげか色が残っている。
「ユキ」と「シタ」の文字の大きさが少し違うように見える。

①と②の比較

写真の撮り方のせいかもしれないが、②の方が平べったいような気がする。

発見場所 神奈川県鎌倉市雪ノ下一丁目

下のものは隠れて見えないが「鎌 営」となっているはず。「東 電」は上にあるので、「鎌 営」より新しい世代のものということか。

赤坂サカスの桜とTBS DRAMAギャラリー

2024年4月11日、TBSに向かう途中、芸能人を見かけた。

たぶんだけど、ピンクのスカートは柳原可奈子で、グリーンのスカートは関根麻里だった。
柳原可奈子の話し声が聞こえたので間違いないと思う。

スマホのカメラが間に合わず、後ろ姿だけになってしまった。

Sacas広場

ドラマなどのパネルが飾られている。

TBS DRAMAギャラリー

4月から始まるTBSドラマ、火曜ドラマ『くるり〜誰が私と恋をした?〜』、日曜劇場『アンチヒーロー』、金曜ドラマ『9ボーダー』の3ドラマのフォトスポットや応援メッセージを届けられるスペース
4月から始まるTBSドラマをモチーフに、たくさんのフォトスポットを設置したスペース「TBS DRAMAギャラリー」が、赤坂BLITZスタジオホワイエスペースにオープンした。
ギャラリーには、各ドラマのポスタービジュアルを背景としたフォトスペース、応援メッセージを「推し絵馬」に書いて飾ることができるコーナーを設置。

TBS DRAMA ギャラリー概要
期間:2024年4月5日(金)〜未定
時間:11:00〜19:00 *4月6日(土)は15:30からの開館予定となります。
場所:TBS赤坂BLITZスタジオ ホワイエ
*入場無料



TBSロゴのモニュメント



TBSロゴのモニュメントに出演者の直筆サインが書かれていた。



それぞれのロゴに何の番組か書いてあればいいのだが、サインが読めなくて全然わからなかった。

これらのサインが今回のドラマに出演している人達のサインだとわかったのは、家に帰ってからだった。

T 火曜ドラマ『くるり〜誰が私と恋をした?〜』



B 日曜劇場『アンチヒーロー



S 金曜ドラマ『9ボーダー』

ロゴと番組の関係はどうにか分かったが、誰のサインかほとんど解読できず。

くるり~誰が私と恋をした?~』の主題歌「I wonder」と指輪

音が止まった
色が変わった
空白だった記憶の彼方
ドラマみたいだ
鼓動が鳴った
I wonder

足跡を辿って
分かれ道で立ち止まってる
八方美人で誤魔化した
燦きは霧の向こう

ホントのこと教えて
ホントの自分に出会えた時
愛し愛される未来が
きっと訪れる

見つめていたい
透明なガラスのキャンパス
彩ったニュアンスカラー
淡い、甘い、曖昧
探していたい
素直なままの君のパレットで
真実だけ描いていくから

I wander I wonder

重ねた色が涙で流れて
虹色になるから

見つめていたい
透明なガラスのキャンパス
彩ったニュアンスカラー
淡い、甘い、曖昧
探していたい
素直なままの君のパレットで
真実だけ描いていくから

音が止まった
色が変わった
パズルみたいな記憶の欠片
誰かが呼んだ
数動が鳴った
I wonder

指輪

影がハートになっている。

きっと、このように見えるように位置を調整したのだろう。

階段に飾られているパネル



モニュメント



曇り空だが、外に出て桜を見に行こう。

赤坂サカスエリアには、およそ100本、11種類の桜が植えられている。

紅枝垂(ベニシダレ)
寒緋桜(カンヒザクラ
河津桜カワヅザクラ
染井吉野ソメイヨシノ
山桜(ヤマザクラ
思川(オモイガワ)
アーコレード     
天の川(アマノガワ)
関山(カンザン)
普賢象(フゲンゾウ)
兼六園菊桜(ケンロクエンキクザクラ)

 



さくら坂



三春桜


来るのが遅すぎた。葉桜になっていた。

赤坂サカスエリアには、およそ100本のサクラが植えてられています。その中心に位置しシンボルとも言えるのがこの「三春桜」です。「三春桜」は、エドヒガン系のベニシダレザクラで、樹高12メートル、樹齢は100年とも言われています。日本三大桜の ひとつて国の人然記念物、福島県三春町の「滝桜」の子孫樹であることから、「三春桜」の名がつけられました。
ここに「滝桜」の子孫樹を植えたのは、ウェルカムホールの壁面に描かれた「四季樹木図」との関係からです。赤坂サカスを訪れた方が東京メトロ赤坂駅の改札を抜けると、まず目に飛び込んでくるのは日本画家・千住博さんが「四季樹木図」に描いた満開の「滝桜」。そして、地上への階段(TBSメディアステアーズ)を進むとそこには「滝桜」の子孫樹「三春桜」が・・・
春、そんな時空を越える浪漫を是非体験なさってください。

来年こそ三春桜が満開のタイミングに訪問し、時空を越える浪漫を体験することにしよう。

景観重要建築物「白日堂」に設置されている町名看板「鎌倉市長谷20」

久しぶりに鎌倉市を訪問する。

何年振り?

覚えていない。

10年以上は来ていないはず。

たぶんその頃は多くなかったはずの外国人観光客の多さに驚く。

まあ、今はどこに行ってもだけれど。

天気は晴れ、最高気温は21.2℃(辻堂)、25.5℃(横浜)。

辻堂の方が近いけれど、体感は横浜。

今回訪問のメインターゲットは町名看板「鎌倉市長谷20」。

「坂ノ下184」が消滅してしまっているようなので、鎌倉市で現存を確認できている町名看板は、この1枚だけになっている。

長谷20?

見つからない。

調べてみると現存している町名だが、1972年(昭和47年)10月1日に住居表示されていた。

どうやって探す?

鎌倉市のホームページを調べてみると、住居表示旧新対照表(区画整理を含む)が見つかった。

これで現在の住所を確認することができた。

寄り道をしながら、ようやくたどり着いた。

人通りが多く、途切れるのしばらく待つ。

鎌倉市景観重要建築物等第13号 平成8年(1996年)3月1日指定
白日堂

白日堂は、鎌倉の伝統工芸である鎌倉彫の工房兼住宅を代表する建物で、城郭風と寺院風をあわせた意匠が際立っています。通りからは重厚な伝統的意匠とともに鉄平石張りの腰壁をもつショーウィンドーという近代的な要素との組み合わせが醸し出す特異な雰囲気を味わうことができます。
笹目町にある寸松堂も同一施工者の作品です。

建築年 昭和15年(1940年)以前
設計者 西井喜一、西井正二
施工者 西井喜一、西井正二

構造規模:

木造2階建、和小屋組
延べ床面積/205.19平方メートル
屋根/桟瓦葺き入母屋(一方は切妻)、庇の一部は亜鉛引鉄板葺き
外壁/漆喰塗り大壁、一部は押縁下見板張り

この建物に町名看板が設置されていた。

発見日  2024年4月15日

発見場所 神奈川県鎌倉市長谷三丁目

町名看板「鎌倉市長谷20」

不二屋があったと思われる住所(鎌倉市長谷2-10-41)をストリードビューで調べてみたら、セブンイレブンになっていた。

新宿歴史博物館に展示されている四谷見附橋の高欄とコヒガンザクラ

新宿歴史博物館を訪れると、サンクンガーデン(地下式庭園)にあるコヒガンザクラが満開だった。

訪問日  2024年3月28、30日

訪問場所 新宿歴史博物館(東京新宿区四谷三栄町20-16)

博物館のエントランスに四谷見附橋の高欄が展示されている。

 大正2年(1913)10月に開通した四谷見附橋の欄干の一部です。四谷見附橋は、現在の国道20号線甲州街道)にかかる橋で、JR中央線四ッ谷駅を跨ぎ、新宿区と千代田区を結んでいます。
 この橋がかかるまで四谷見附は、江戸城防備のため甲州街道の要衝として築かれたコの字状の枡形の名残をとどめ、麹町方面には直進することができませんでした。そこで東京市は、甲州街道を直行する橋を計画し、明治44年(1911)3月に着工、大正2年(1913)10月に完成しました。
 橋のデザインは、近くの赤坂離宮(現在の迎賓館)の外観と調和させたネオ・バロック様式(19世紀、ナポレオンⅢ世の頃パリで流行った荘重・華麗な建築様式)となっています。
 橋は、平成3年(1991)に道路拡幅のため架け替え、再使用できない部材の一部が当館に寄贈されました。また、架け替え前の四谷見附橋の姿は、八王子市南大沢の長池公園に復元されており、長池見附橋と名づけられています。

竣工時の四谷見附橋 (「建築写真類輯 橋梁」より)



高欄と装飾 (『建築写真類輯 橋梁』より)



架け替えられた四谷見附橋

現在放送されているNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」で明治大学(劇中では明律大学)周辺の風景として東京・御茶ノ水~神田界隈がたびたび登場している。ニコライ堂のドーム屋根も印象的な橋の上のシーン、この橋が長池見附橋で、背景はCGとのこと。



新宿歴史博物館の建物の鏡面部分に映る桜もso good!。



現在の四谷見附橋は、1987年(昭和62年)に拡幅され架け替えられたものだが、橋灯などの細部や全体のデザインは旧橋の意匠を継承してつくられている。

取材を重ね、いずれその魅力を紹介したいと考えている。