歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

瓦葺掛樋跡 in 埼玉県蓮田市・上尾市

蓮田駅西口にあるはすだ散策

ここに「M.瓦葺の掛渡井」のことが書かれていた。

上尾市(瓦葺)との境の綾瀬川で見沼代用水が川の下へ潜っています。水の立体交差でこの用水ができた当時(1728年)は木製の掛樋が川の上を通り、「瓦葺の掛渡井(かけどい)」と呼ばれていました。見沼代用水は、農業用水であると同時に江戸への航路でした。こ のため、掛渡井は長さ40m幅14mもあり、船も通ることができたようです。現在見られるものは、明治41年に、レンガと鉄で造られた掛樋の名残です。
*掛樋:河川の上を通る「川の立体交差」。

煉瓦好きの自分(いつからそうなったのか不明)としては、興味をそそられたので、訪問してみることにした。

訪問日 2024年4月1日

蓮田市



右 1909年(明治43年)建立の「改修懸樋碑記」


煉瓦掛樋の竣工を記念したもの。

碑文によると、工事の起工は明治40年4月で、竣工は明治41年3月となっている。

左 1916年(大正5年)建立の「懸樋改修碑記」

明治43年の大洪水で破壊された掛樋の修復を記念したもの。

見沼代用水


埼玉合口二期事業

見沼代用水路東西竣功記念碑

埼玉県知事 畑和 書

碑文
見沼代用水路は、徳川八代将軍吉宗の新田開発の命により、享保12年(1727年)見沼溜井を干拓しこれに代わるものとして水源を利根川に求め、行田市大字須加地先に取水口を設け長大な水路が開削され、爾来260有余年に亘り、埼玉県行田市他18市6町2村及び東京都足立区の沃野に潤沢な農業用水を灌いできた。
然るに、昭和30年前後より日本経済のめまぐるしい進展が首都圏に都市用水需要の増大をもたらし、これと相俟って東京オリンピックの開催により水資源の開発が急務となった。これに対応するため、埼玉合口1期事業として昭和43年利根大堰が建設され、農業用水取水口を統合し、埼玉県及び東京都への都市用水の供給を可能ならしめた。
その後も経済発展は持続し県南地域の都市化は農地の潰廃を早め、農業用水を都市用水に転用する機運が急速に高まった。
一方これに係る施設及び用水路は、老朽化と機能低下が著しく営農上支障を来たし、これを踏まえ組合員27000余名の深い理解と同意を得、水利用の合理化と、安定供給を目的とし埼玉合口2期事業計画が樹立され、昭和53年度より着工の運びとなった。
なお、利根大堰より大宮市東宮下地内大宮第2調節堰及び浦和市上木崎地内正樹院橋上流地点までは、水資源開発公団が施工し、同地点より東西縁下流川口市地内に至る区間は、埼玉県直轄工事として、県営及び団体営かんがい排水事業、県単見沼下流農業用水合理化事業にて実施した。この間幾多の艱難辛苦を克服し、先人が築いた偉業とその意を体し、近代技術の粋を集め昭和63年度をもって歴史と伝統を誇る用水路の竣功の喜びを見るに至った。
本事業実施に際し、国・県・東京都・関係市町村の御指導御援助と、組合員各位の深い理解と御協力に対し深甚より感謝の意を表し、本事業の使命達成はもとより沿線住民の安らぎと憩いの場として活用されんことを祈念し茲に概要の一端を刻す。

平成元年3月吉日 撰文 見沼土地改良区理事長 渡辺一郎

事業概要
水資源開発公団営事業
総事業費:524億円
基幹線水路31.7km
東縁用水路6.2km 西縁用水路10.6km

県営かんがい排水事業
総事業費:16億5500万円
東縁用水路3.2km 西縁用水路6.0km

団体営かんがい排水事業
総事業費:21億100万円
東縁用水路7.0km 西縁用水路3.5km

見沼下流農業用水合理化事業
総事業費:37億500万円
東縁用水路9.7km 西縁用水路1.3km

瓦葺掛樋跡



先端まで行こうと思ったが、万が一落ちたら嫌なので、断念する。

蓮田市側には「瓦葺掛樋跡」に関する説明板は設置されていなかった。

橋の上から



上尾市

蓮田市側から



立合橋を渡り、上尾市

枯木に覆われて、全貌を確認することができない。



掛樋史跡公園


掛樋に接続する旧水路(見沼代用水)の側壁部分の遺構(長さは約20m)が残されていた。

「瓦葺懸渡井官費営繕之真景図」のレリーフ

上尾市指定有形文化財
歴  史  資  料  昭和61年3月31日指定

 このレリーフは平成元年(1989)年に上尾市指定有形文化財「瓦葺懸渡井官費営繕之真景図」(上尾市教育委員会蔵)を参考に制作されたものである。「真景図」(上瓦葺村の黒須家旧蔵)は、明治初期の掛樋の姿を描いたもので、掛渡井、懸樋などとも呼ばれていた掛樋が木製であった頃の様子をよく知ることができる貴重な歴史資料である。
 画面中央を下(北)から上(南)へ流れる綾瀬川の上に木製の掛樋が架けられており、その上を画面左から画面中央に向かって見沼代用水が流れている。用水はこの瓦葺の地で台地の縁に沿って東縁と西縁に分流する。
 見沼代用水と元荒川が交わる場所に設けられた柴山伏越(白岡市)のような川の下をくぐる伏越に対して、掛樋には通船の便があり、舟運にも用いられ、河岸場も存在した。
    平成30年12月 上尾市教育委員会

上尾市登録文化財
記念物(史跡)  瓦葺掛樋跡

上尾市大字瓦葺二八六―三
平成二七年一一月一七日 登録

 「瓦葺掛樋」は、見沼代用水路の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水路と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以後この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々漏水腐食が生じ、毎年のように修理が行われ十年以内の年限で架替も必要であったとされる。
 現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。
 見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流水不足などのため廃止され、綾瀬川の下をくぐる伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立合橋の再建に伴い煉瓦積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。
 なお、現存する煉瓦は上敷免村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。

平成三〇年一二月 上尾市教育委員会

お問い合わせは生涯学習課へ ○四八一七七五一九四九六

刻印は確認しなかったなあ。

ちょっと危険が伴う。

掛樋周辺図(1982年調查時)



満水時の鉄製掛桶(下を流れるのは綾瀬川



見沼代用水周辺図



緑のヘルシーロードと水のふれあいロード

「掛渡井」とは水路橋のことです。見沼代用水が完成した1728年以来、舟運のため綾瀬川の上を木製の掛渡井で渡していましたが、明治41年(1908)にレンガ造り基礎のコンクリート水路橋に改修されました。昭和35年(1960)まで使われた後、現在のように綾瀬川 の下をくぐる伏越に改修されました。使用されているレンガは東京駅などと同じ日本煉瓦製造(深谷市)の物です。

"掛渡井"と"掛樋"、素人の自分、調べてしまった。

同じものだった。

きまぐれ旅写真館(http://fukadasoft2.sakura.ne.jp/)さんの「第6回 埼玉県の煉瓦水門」によると、2002年4月現在と情報はかなり古いが、煉瓦を使った樋門・樋管等は埼玉県では87基確認できたそうだ。この数は日本一らしい。

灯台下暗し。

煉瓦好きの自分としては、どのくらい現存しているかアプデしたい気持ちだが、川は結構駅から遠いところに流れていることが多いので、難易度が高め。

近いところからチャレンジしてみよう。