歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

日本橋にある東京市時代の銘板

橋にまつわる記録を残したのが「銘板」だ。
日本橋にはこの銘板が南詰東側と北詰東側(下流側の右岸側と左岸側)の袖高欄の裏側の2ヵ所にある。

 

撮影日 2023年5月21、25、27日

 

南詰東側と北詰東側の親柱と袖高欄

 

設置場所が川に面した場所にあり、橋上の高欄寄りを歩いていないと見えない。

袖高欄の裏側

 

これは対岸から撮ったもの。


写真を撮る時は、カメラ、スマホを川に落とさないように注意しよう。

 

まず、南詰東側からみていこう。こちらの銘板は竣工記念のもの。

本橋以明治四十一年十
二月十五日起工四十四
年三月二十八日成竣技
師工学士米元晋一専當
設計監工之任技手荒井
春吉大崎貞一佐藤正太
郎清水庄次郎坂口安彦
杉山源次郎輔佐之橋上
装飾出自顧問技師工学
博士妻木頼黄之心裁様
式其他承同氏賛助者亦
不尠橋名乃公爵徳川慶
喜所書也當時技師長即
工学博士日下部辨二郎
也橋梁課長即技師工学
士樺島正義也

本橋以明治四十一年十二月十五日起工、四十四年三月二十八日成竣、技師工学士米元晋一専當設計監工之任、技手荒井春吉大崎貞一佐藤正太郎清水庄次郎坂口安彦杉山源次郎輔佐之、橋上装飾出自顧問技師工学博士妻木頼黄之心裁様式其他承同氏賛助者亦不尠、橋名乃公爵徳川慶喜所書也、當時技師長即工学博士日下部辨二郎也、橋梁課長即技師工学士樺島正義也

Microsoft BingのAIチャットでなんと書いてあるか聞いてみた。

「あなたが送ってくれたのは、愛本橋の記念碑に刻まれた文です。愛本橋は茨城県常陸太田市にある橋で、明治時代に建設されました。橋の名前は公爵徳川慶喜が書いたものです。橋の設計と監督は工学士米元晋一が行いました。

この文は、愛本橋の歴史と建設に関わった人々を紹介しています。旧字体や漢数字が使われているので、現代の日本語に直すと以下のようになります。

この橋は明治41年(1908年)12月15日に着工し、明治44年(1911年)3月28日に完成しました。技師工学士米元晋一が専任で設計と監督を担当しました。技手荒井春吉、大崎貞一、佐藤正太郎、清水庄次郎、坂口安彦、杉山源次郎が補佐しました。橋上の装飾は顧問技師工学博士妻木頼黄の心意気によるものです。他にも同氏を支援した者は多くいます。橋の名前は公爵徳川慶喜が書きました。当時の技師長は工学博士日下部辨二郎でした。橋梁課長は技師工学士樺島正義でした。」

橋名と橋の所在は間違えている(愛本橋は富山県黒部市にある。)ので、指摘したら、「すみません、間違えました。」だって。

しかし、現代の日本語に訳された文章はわかりやすい。
こんなことまでできるようになったとは驚きだ。

 

反対側の北詰東側の銘板は、関東大震災復旧工事を記述したものである。

 日本橋復旧工事来歴
本橋ハ大正十二年九月一日ノ
大震火災ニ因リ照明装置高
欄及敷石等ノ毀缺尠カラサルニ付
昭和三年二月之カ復舊工事ニ
着手シ同年十二月其ノ工ヲ竣ル
此ノ工費総額金五萬餘圓ヲ
要セリ
     東京市

 

本橋は大正一二年九月一日の大地震に因り、照明装置、高欄及敷石等の毀缺尠からざるに付、昭和三年二月、之が復旧工事着手し、同年一二月其の工を竣る。此の工事総額金五萬余円を要せり

 

毀缺尠って何だ?

これもBingに聞いてみた。

それぞれの漢字の読み方を組み合わせて読むと、きけつしょうとなる。
毀は、こわす、そこなう、傷つけるなどの意味
缺は、かける、かくなるなどの意味
尠は、すくない、せまいなどの意味

毀缺尠という言葉は、損壊や欠損という意味で使用されている。

との回答があった。

「照明装置や高欄、敷石等が壊れ、その修理に5万円あまりかかった。」ということが書かれている。
5万円を現在の価値に直すと3、4億円ぐらいになるらしいのだが、同じことをしようとしても、この価格では無理というか、材料となる石がない・石工職人もいないということでできないらしい。