はっきり覚えていないが、どのくらいぶりの訪問になるだろう?
月島の再開発がとんでもないことになっているという噂を聞き、今回はそれらを確認するために訪問することにした。
その報告は後日する(衝撃的、嘘でしょう!信じられないような光景が広がっていた。これは、あくまでも個人的感覚である。)として、今回は以前佃で発見したものも含めて旧町名の痕跡達を紹介することにしよう。
再訪日 2023年5月25日
発見場所 東京都中央区佃一丁目
①京橋區佃島一番地
発見日 2020年9月7日
これは現存を確認することができた。
②京橋區佃島三九番地
発見日 2020年9月7日
建物は残っていたが、この住所プレートがなくなっていた。(撮影日2023年5月27日)
ということは、どこかにはあるのだろう。
住人の方が保管しているのか、マニアの手に渡ったのか、詳細は分からない。
しかし、あるべきところにないということは、消滅してしまったということになるのだろう。
次に紹介するのは電力プレート。
③ツクダ-6
この建物の前は歩いたことがあるはずだが、今まで気が付かなかった。
自分としては新発見のもの。(たぶん、自信はない。)
発見日 2023年5月25日
劣化が激しく、三文字目がはっきりしないが、「ダ」だと思う。
数字の6の前も何かあるような気もするが、読み取れない。
④発見日 2023年6月23日
写真を撮った時は気が付かなかったが、左上にセミの抜け殻が付いていた。
天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣された時 田蓑島時代 の大阪市西淀川区佃町の漁夫等が漁船によって神崎川の渡船を務めたので田蓑神社にも参拝され その時田蓑村の名称を佃と改められた すなわち漁業の傍ら田をも作れという意であった 天正十八年家康公が関東へ下降された時 佃村の漁夫三十余名が従えられ 田蓑神社の神主平岡正大夫の弟權大夫好次という者が 住吉大神の分神霊を奉載して同行して安藤対馬守 石川大隅守等の邸内に一時安置していたが 寛永年間に鉄砲洲の向の三角州(百間四方)を幕府より賜わり 築島工事を起して正保二年それが完成したので本国の村名を取って佃島 と称えることになった その一部を社地と定め社殿を造営した 正保三年六月二十九日と記録されている
佃島の歴史
佃島は江戸時代初期、摂津国佃村と大和田村の漁師たちが鉄砲洲沖の干潟を拝領して埋め立て、漁師町を形成しました。漁師たちは将軍に白魚献上の御用を勤めました。佃煮が生まれた地としても知られ、現在も3軒の佃煮屋が営業しています。 関東大震災、戦災の難をまぬがれたため、長い年月の変容も受けながらも昔のたたずまいを今に残しています。