歩・探・見・感

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琺瑯住所プレート 霊岸島二丁目六番地

発見日  2020年12月19日

発見場所 東京都中央区新川1丁目

霊岸島」は「れいがんじま」と読む。「霊巌島」とも書く。

琺瑯住所プレート探しを開始してからの経歴は短いが、自分の過去史上、発見したものの中で、発見するまで、一番時間がかかったものである。

見つかれば、なんだこんなところにあったんだとすぐ気が付くようなところにあった。
目の前を何回も通ったはずなのに、何故すぐ見つけられなかっただろうと不思議に思うくらいである。
こう書いてはみたものの、ストリートビューで見てみると、植木が前にあり、思ったより小さいので、結構わかりにくいのかもしれない。

2021年9月26日追記
昨日(2021年9月25日)実際にどうなっているを確認するため、現地を再々々々々々訪(実際このくらい再訪していた)してきた。
少し離れた所から撮ったものである。葉っぱと枝の陰に隠れて見えない。やはり、これでは、目の前を歩いていも気が付かない可能性大で、簡単には見つけられるものではないと思った。何の木か知らないが、以前訪問した時より、春から夏にかけて更に成長したように感じる。
更に探索難易度が上がってしまったようだ。

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もう少し近寄って撮ったものである。これならわかるが、ここにあるということが分かっていたから、撮れたものである。

サイズも図ってきた。高さは約18㎝、幅が約4㎝だった。

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だが、見つけられなかった原因は、ある先入観があったからではないか思っている。先入観を持つなという自分への戒め、自戒の意味もあり、この記事を書いている。

たかが琺瑯住所プレート探索に何を言っているんだと思う方がほとんどだと思う。その通りである。そのため、そんなのは関心ないという方は、読み飛ばしてもらって結構である。

数回かけてやっと見つけることができたその経緯をまとめてみた。

ネットで霊岸島琺瑯住所プレートの情報を見つけて、どうしても見に行きたいと思ったのがきっかけである。

中央区新川にあるという情報を見つけ、1丁目、2丁目全域を歩き回る。

中央区新川1丁目にあるという情報を見つけ、1丁目全域を歩き回る。

中央区新川1丁目〇番地にあるという情報を見つけ、1丁目〇番地全域を歩き回る。

自動販売機の裏あたりにあるという情報を見つけ、新川1丁目にある自動販売機の裏を探す。

⑤これだけ探してもないのだから、もう消滅してしまったのかと思い、気落ちしていたところ、2020年のいつ頃だったか忘れたが、現存しているという情報を得ることができた。場所を教えてくれると書いてあった情報もあったので、その誘惑に負けそうになったが、何とか自力で探すことにする。
少しして、ついに、この琺瑯住所プレートが設置されている建物の写真を見つける。
この情報を元に周辺を探すが、この建物の前の道が工事中だったこともあり、すぐには見つからなかったが、ふと正面を見るとなんと目の前にあった!


既に他のサイトで紹介されており、見たことがあるという方も多いと思うが、やはり、自分が撮った写真を見てもらいたい。それがこの写真である。

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何度見てもいいものだ。
だが、「霊岸島」の「霊」の字の上部と「地」の字の下部が、以前撮られた写真と比較してみると、錆びてきているように思われる。
昭和46年(1971年)に町名変更にて現在の新川1丁目になっているので、少なくとも、設置されてから、50年以上経過している。
更に錆が進行しないように、中央区か東京都の文化財担当の方が、何か対策してくれればいいのだが。

上で書いた先入観のことである。
①から③はネットで紹介されている写真を見て、管があったり、左側が塀かと思い、建物と建物の間の下の方に設置されていると思ってしまった。
→ 住所プレートがそんなところに設置されていたら意味がない。なぜそんなことに気が付かないのか。

これが一番大きく、あるはずもないのにいつも建物と建物の間の下の方ばかりを探していた。
町名看板もそうだ。ブロック塀や家屋に設置されているものだと思っているが、塀と塀の隙間、道からは見えにくなっている地面に放置されていることもある。

今後、先入観、思い込みにとらわれず、探索道に精進していこう。

 

2022年3月20日追加
2022年3月19日訪問し、住所プレートを確認してきた。

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相変わらず、木の葉でおおわれていた。

 

霊岸島の由来

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霊巌島の由来 
 当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。 
 寛永元年(一六二四)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の一歩を踏みだし、同十一年(一六三五)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。 
 邸の北、西、南3面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。 
 明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。 
 明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町。東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年(一九三一)七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一・二2丁目、越前堀一・二・三丁目と改称され、更に昭和四六年住居表示制度の実施により新川一、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。 
  昭和五十二年三月    霊巌島保存会

 

2022年7月29日追記

地図に旧町名「霊岸島」が記載されていた。

 

霊岸橋

「はし」になっている場合が多いが、「ばし」になっていた。

茅場町と新川を結んでいる橋。かつての霊岸島にちなむ橋名だが、すでに江戸の後期には霊岸橋 の名称があったようだ。
昭和5年(1930)、震災復興事業により鉄筋コンクリートの橋が架けられた。現在の橋は老朽化したために架け替えられた鋼製の橋で、昭和60年(1985)に完成していた。

永井荷風の『日和下駄』では、

霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水の或は分れ或は合がつする処、橋は橋に接し、流れは流れと相激あひげきし、稍やゝともすれば船は船に突当らうとしてゐる。(水 附渡船)

と光景を描いている。

 

霊岸島交差点