歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

勝海舟の銅像と桜  in 墨田区役所前うるおい広場

墨田区役所前うるおい広場の緑地内に右手を前に突き出した勝海舟銅像がある。

 

訪問日 2023年2月27日

 

正面

後ろ姿

幕末の偉人で、生誕180年を迎えた勝海舟銅像が、墨田区吾妻橋一丁目の区役所うるおい広場に建てられ、2003年7月21日、除幕式があった。勝海舟の子孫や募金したボランティア、区役所関係者など数百人が出席、像は墨田区に寄付された。

建立のきっかけは、鵜沢義行・日本大学名誉教授が平成11年(1999)に区教委主催で開いた「墨田区勝海舟」講座。現在の両国で育った勝海舟について「江戸を戦火から救い、今日の東京の発展と近代日本の舵取りをした。銅像がないのは寂しい」と話した。講演後、約20人の聴衆が像建立の寄付を申し出た。鵜沢さんの講演料と合わせ3万円が集まった。

その後、「勝海舟銅像を建てる会」をつくって寄付を募った。800人以上から約4900万円が集まった。

像は身長158㎝だった本人の約1・6倍の255㎝。台座(地元墨田区に本社がある坂田建設が施工)を含めると5.5mのそびえるような高さ。地元で育った日展評議員・審査員の彫刻家の木内禮智・東京家政大学名誉教授が制作。像は、江戸城無血開城の時の40代当時の勝を描いた。隅田川下流を指さしているのは、太平洋から世界に続く道筋、日本の針路を示しているという。木内さんは「芸大に学んだ頃から、近くの上野には西郷像があり、勝海舟の像をつくりたいと思っていた」と話す。

 

 

柳田泰山揮毫

 

建立の記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
 海舟生誕180年
 平成15年(2003)7月21日(海の日) 
 墨田区長 山﨑 昇

 

勝海舟略年表

1823 文政6
 江戸本所亀沢町の男谷邸(現両国4丁目)に生れる。父は勝小吉、母は信子。通称麟太郎。名は義邦。
1829 文政12
 12代将軍家慶公の五男初之丞に召されたという(9歳または12歳まで)。
1837 天保9
 父小吉隠居し(号夢酔)、家督を相続。
 島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始める。夜は牛島神社(王子権現)で寒稽古。
1841 天保12
 牛島の弘福寺にて、座禅を修める。
1845 弘化2
 岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚。
 永井青崖に蘭学を学ぶ。
1846 弘化3
 本所から赤坂田町に転居。
1848 嘉永1
 日蘭辞書「ヅーフハルマ」の筆写(2部)終了。
1850 嘉永3
 父小吉死去(49歳)。
 赤坂田町に私塾を開き蘭学と静養兵学を教授。
1852 嘉永5
 諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲を鋳造。
1853 嘉永6
 「海防意見書」を提出。
1855 安政2
 大久保一翁の推挙で、藩書翻訳勤務を命じられる。
 長崎海軍伝習を命じられる。
 小普請組から小十人組となる。
 9月1日長崎に向かう(10月20日長崎着)。
1856 安政3
 講武所砲術師範役となる。
 海軍伝習の功により大番に番替えとなる。
1858 安政5
 咸臨丸で下関・五島・対馬・鹿児島などを巡航。
 鹿児島で島津斉彬に謁する。
1859 安政6
 長崎の伝習を終え、江戸帰府。
 赤坂元氷川町に転居。
 アメリカ派遣を命じられる。
1860 万延元
 咸臨丸で品川沖を就航、アメリカに向かう。
 サンフランシスコ到着。
 サンフランシスコを出向、帰国の途につく。
 浦賀に帰港。
 江戸に帰る。
 藩書調書頭取助となる。
1861 文久
 講武所砲術師範役となる。
1862 文久2
 軍艦操練所頭取となる。
 軍艦奉行並になる。
 坂本龍馬ほか9名海舟の門下生となる。
1863 文久3
 将軍家茂の摂津湾巡覧を案内、家茂から直接神戸海軍操練所設立の許可を得る。
 12月28日再上洛する将軍家茂を奉じて海路で大阪へ向かう(元治元年正月8日大阪着)。
1864 元治元
 2月5日一橋慶喜より、長崎派遣を命じられる(4月12日大阪帰還)。
 軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。
 神戸海軍操練所設置布達。
 11月10日軍艦奉行罷免、寄合となる。(慶応元年〔1865〕3月9日神戸海軍操練所廃止)。
1866 慶応2
 軍艦奉行再勤を命じられる。
 一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受ける。
 安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談、休戦を協定。
1867 慶応3
 海軍伝習掛を命じられる。
1868 慶応4
 海軍奉行並となる。
 陸軍総裁となる。
 陸軍総裁を免じ、軍事取扱を命じられる。
 高輪の薩摩藩邸にて西郷隆盛と会見。
 田町にて再び西郷と会見、江戸無血開城を決める。
 江戸城引き渡し終了。
1868 明治元
 改元
 10月11日蒸気船で東京を離れ駿府に向かう(12日着)。
1869 明治2
 安房守を安芳と改める。のちに安芳を本名とする。
 7月18日外務大丞に任じられる(8月13日辞退免職)。
 11月23日兵部大丞に任じられる(翌年6月12日辞退免職)。
1870 明治3 
 母信子、静岡で没。
1872 明治5
 海軍大輔となる。
 静岡より帰京、赤坂氷川町4丁目に居す。
1873 明治6
 島津久光慰撫のため、鹿児島へ派遣の命を受ける。
 参議兼海軍卿となる。
1875 明治8
 4月25日元老院議官に任命されるが、直ちに次表提出(11月28日に承認)。
1879 明治12
 木下川浄光寺境内に西郷隆盛類等の碑を建立。
1883 明治16
 吉井友・税所篤らと 西郷隆盛の名誉回復運動始める。
1884 明治17
 遺児寅太郎の参内で西郷隆盛の名誉回復。
1887 明治20
 伯爵となり、華族に列す。
 「吹塵録」35冊、「吹塵余録」9冊編纂成る。
1888 明治21
 枢密顧問官となる。
 「海軍歴史」25巻編纂成る。
1889 明治22
 「陸軍歴史」30巻編纂成る。
1890 明治23
 貴族院の伯爵議員に互選されたが辞退。
1891 明治24
 「開国起源」成る。
1892 明治25
 長男小鹿病死(41歳)。2月徳川慶喜の十男精を養子にすることを内定。
1895 明治28
 朝鮮処分等につき意見書を起草。
1898 明治31
 徳川慶喜参内して天皇・皇后に拝謁し、名誉回復。
 慶喜、海舟宅を訪れ名誉回復の謝意を表す。
1899 明治32
 自邸で死去(発喪は21日)。
 青山墓地で葬儀。洗足池畔に葬る。
江戸東京博物館『没後100年勝海舟展』を参照)
 平成15年(2003)7月21日  墨田区教育委員会

 

篤志家芳名 一般寄附芳名

 

桜が気になり再訪したが・・・。

訪問日 2023年3月20日

満開には程遠かった。

 

最初の訪問からほぼ一カ月後、桜が満開になっていた。

訪問日 2023年3月24日

 

右斜めから

 

左斜めから

曇り空だったのが残念だった。

 

訪問日 2023年4月1日

晴れていたが風が強かった。

桜が散り始めていた。

白い点々は桜吹雪。