歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名「神田旭町」と佐竹稲荷神社

かなり前に発見していたのだが、まだ紹介していなかった。

この投稿を含めて旧町名関連の記事は360になるが、今まで発見したものの半分くらしか紹介できていないかもしれない。
その理由は、他の方が発見したものの後追いがほとんどなので、他の方が紹介したものプラスアルファの情報がない場合は、紹介する意味があまりないのではと思っているからである。

どの口が言ってるンダ?
付加情報もないのに、自分の手柄のように紹介しているのあるんじゃないの?
アレとか、コレとか。

同好の士の方の中で自分が第一発見者であると思われるもの(自分でそう思っているだけかもしれないが・・・)は、すぐ紹介してしまう(自己顕示欲?、承認欲求?、どちらだ?、両方?)くせに。

まあ、自分を責めるのはこのくらいにしておこう。

 

今後は、痕跡が消滅してしまう前に、旧町名の大量のストックの中から、プラスアルファ情報を探しながら徐々に紹介していきたいと思っている。
このようなことができるのは、発見された方のお陰である。
感謝。

 

発見日  2021年1月14日

発見場所 東京都千代田区内神田三丁目

 

訪問日 2023年5月21日

 

町名由来板

旭町(あさひちょう)は、寛永(かんえい)年間(1624年~1644年)の江戸図によると、能楽師幸若太夫(こうわかだゆう)と、出羽(でわ)秋田藩の藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷地でした。

その後、天和(てんな)二年(1682年)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線堀(したやしゃみせんぼり)に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人地となり、永富町(ながとみちょう)二丁目~四丁目、新革屋町代地(しんかわやちょうだいち)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)の一部となりました。明治二年(1869年)、これらの地域は「旭町」と改名されました。

旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治(ぶんじ)五年(1189年)、源頼朝(みなもとのよりとも)は藤原泰衡(やすひら)を討伐(とうばつ)するため奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)へ向かいました。そのとき常陸国(ひたちのくに)佐竹郷(さたけごう)の武士だった佐竹秀義(ひでよし)は、宇都宮(うつのみや)で頼朝の軍に合流し御家人(ごけにん)となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれています。

明治二年、このあたりが、慶長(けいちょう)九年(1604年)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷(かみやしき)だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようです。
昭和四十一年(1966年)に住居表示が実施されると、内神田二丁目(うちかんだにちょうめ)と三丁目(さんちょうめ)の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 

内神田神田旭町々会

 

佐竹稲荷神社

由緒

当佐竹稲荷神社は 此の地に江戸屋敷を構えた佐竹家(秋田二十万石)が藩邸の鬼門除けのため 寛永十二年(1635)邸内の一隅に稲荷の神を勧請 建立したのに始まり 其の後天和二年(1682)の大火により一面焼土となり藩邸は下谷に移ったが 稲荷神社は再建され 佐竹家の家紋『扇に日の丸』を社紋とし火伏の守護神として江戸市民の信仰を受けてきた
明治にいたり神社制度が確立されるや 無格社となり 其の祭祀は神田明神神職が兼務し 其の維持は地元有志に委ねられた 時移り大正十二年の関東大震災に惜しくも灰燼に帰し 社有地は区画整理のため現在地に移され社殿の再建をみたが 昭和二十年の空襲により再び消失の厄にあった 戦後の混乱期をへて復興の曙光をみる 昭和二十六年に仮宮が造営され 昭和二十七年には宗教法人により登記され 昭和三十年地元有志の奉賛により 総檜一間社霊屋造りの本殿が竣工し今日に至った

 

神田旭町会と刻まれている。

 

佐竹稲荷神社の柱に設置されていた円形プレート。

中央には「旭町」の文字が刻まれていて、その周りは何だろう?
旭で朝日をイメージしているのかな?

下には佐竹稲荷神社の社紋の「扇に日の丸」が三つ並んでいる。