歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧町名 江戸川区西船堀

東船堀と南船堀の表札は発見することができた。

西船堀の表札は存在しているのだろうか?

前回訪問した時は、どのあたりが西船堀の町域だったのかわからなかったが、路地の奥に怪しそうな小規模の住宅密集地らしきところがあった。
進入しようとしたが、その路地の入口の家の2階から爺さんが「入ってくるな!」と日傘を差したおじさん(自分のこと)ににらみを利かせているように見えたので、躊躇してしまい、進入を諦めた。

そこで、他の旧町名探索と合わせて再度、江戸川区に上陸することにした。

事前調査で町域を確認し、以前爺さんに行く手を阻まれた場所も含めて、ローラー作戦を決行した。

結果は・・・。

表札は発見することはできなかったが、何も収穫がなかったわけではない。

旧町名が残っていたものを紹介していこう。

 

船堀稲荷神社

鳥居の前に柑橘系の果実が生っていた。

『新編武蔵風土記稿』船堀村の条に「稲荷社」とあり、旧船堀村西組の鎮守で、東小松川の宝珠院が別当だったという。
1874年(明治7年)、現社号に改称して村社に列した。もとは西船堀村422番地に鎮座していたが、荒川の開さくにより、1915年(大正4年)、現在地に遷座した。

 

拝殿の下に刻まれていた。

 

船堀稲荷神社境内社 水神宮

 

狛犬に刻まれていた。

この神社に百度石があるのだが、「大正四年五月吉日建之 西船堀 鹿野仙太郎」と銘がある。
この狛犬には「昭和二年九月吉日 西船堀 八百仙」と銘がある。
百度石を奉納した鹿野仙太郎と同一人物なのかもしれない。

 

手水舎に架けられていた手ぬぐい

 

西船堀町会員プレート

 

西船堀町会器具置場

 

西船堀公園

所在地 船堀2丁目7番14号

 

「船堀中公園」整備にあたり

船堀村の南を流れる川(現在の新川)は舟入堀と呼ばれ、やがて船堀川となったと伝えられています。
「慶弔十九年(1614)宇田川弥次右エ門初代、船堀村開発」と宇田川家の石碑に記述が残っています。宇田川、鈴木両氏が船堀開村時の草分けとの説もあり、この頃光明寺が開山され山王社(現日枝神社)が勧請されています。
 元禄の頃、現在の船堀中公園の西を流れていた水路(法然寺川)を境に西組と東組にわかれ、西組には稲荷社が鎮守として勧請され、西船堀の開発が進みました。
「新編武蔵風土記稿」(文政年間刊)には、「公へは船堀村とのみ書し東西の分ちなし、されど村内に西組、東組と分ちて自ら二村ノ如し」と記されています。
 明治二十二年(1889)の市政・町村制施行時に、西船堀村、東船堀村に現南船堀地区を合わせて船堀村としました。
 明治四十四年(1911)に着工した荒川、中川放水路の開削により、西船堀地区は約百四十町歩が買収され、約百十戸が移転し、稲荷神社も現船堀一丁目に遷宮されました。

 

旧町名の痕跡は、異論があるかもしれないが、表札、電力プレート、住所プレートが3種の神器だと勝手に思っている。

でも、それだけでなくてもいいではないか。

3種の神器がメインであることは重々承知しているが、自分は、それ以外も旧町名が刻まれていれば、旧町名の痕跡と認定することとしたい。

それ以外とは何か?

今のところ考えているのは、神社仏閣、公園、町内会、資料館などの展示物などである。

しかし、これはあくまでも当ブログ内に限ってのことで、個人的定義である。

その定義に則って、当ブログでは今までいくつか紹介しているが、他の方も紹介しているのを見かけたりする。

当然主流にはならないだろうが、亜流でもいいではないか。