歩・探・見・感

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登録有形文化財「松本家住宅主屋」と電力プレート「タチヨ2-6」 in 東京区千代田区

多町の町名案内板はもう発見していたと思ったのだが、まだ発見していなかったので、旧町名の痕跡である電力プレートを紹介するために写真を撮ってきた。

 

撮影日  2023年3月4日

撮影場所 東京都千代田区神田多町2-9-3

千代田区ホームページより

大工棟梁・松尾栄太郎の設計施工で昭和6年に建築された、神田多町問屋街に残る震災復興町家です。神田に残る元青果物問屋の店舗兼住宅。多町大通りに面した角地に東面して建っているため、狭い間口と長い奥行きの対比がよく見えるところもポイントです。木造三階建、切妻造、平入で、正面は特徴的な「出桁造」の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りとなっており、東京の下町における震災復興期の和風町家として貴重なものです。

 

発見日 2021年12月23日

 

千代田区町名由来板

多町一丁目(たちょういっちょうめ)(竪大工町(たてだいくちょう)、新石町(しんこくちょう))

江戸時代、この界隈(かいわい)には神田竪大工町(かんだたてだいくちょう)や新石町一丁目(しんこくちょういっちょうめ)といった町がありました。いずれも、商人や職人が集まり住んだ町で、寛永(かんえい)年間(1624年~1644年)には町が成立していたことが、「寛永江戸図(かんえいえどず)」などからわかります。
このうち竪大工町には、幕府の御用を請け負った大工たちが多く住んでいました。講談や落語で知られる大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の名奉行(めいぶぎょう)ぶり、「三方一両損(さんぼういちりょうぞん)」に登場する大工の吉五郎(きちごろう)もこの町の住人でした。また、火消し組の纏(まとい)をつくる「纏屋治郎右衛門(まといやじろうえもん)」の店も、この町にありました。
一方、新石町一丁目は、俗に「河合新石町(かわいしんこくちょう)」とも呼ばれていました。明暦(めいれき)三年(1657年)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」にはすでに「新こく丁」の表記が見られます。
ふたつの町は、それぞれ竪大工町、新石町と改名しながらも、昭和初期まで存続していましたが、昭和八年(1933年)、新たに多町一丁目(たちょういっちょうめ)となり、町会を結成し、また一部は鍛冶町二丁目(かじちょうにちょうめ)に編入されました。
昭和四十一年(1966年)、昭和にできた多町一丁目は、住居表示の実施により内神田三丁目(うちかんださんちょうめ)と変わり、現在に至っています。

 

多町二丁目(たちょうにちょうめ)

いつも裏面は気にしていなかったのだが、「多貮」と書かれていた。

 

慶長(けいちょう)八年(1603年)、徳川家康は荒涼たる武蔵国(むさしのくに)、江戸に幕府を開いて全国支配の中心とするとともに、神田・日本橋・京橋で町づくりを始めました。
寛永(かんえい)年間(1624年~1644年)以前に成立した町を江戸古町(えどこちょう)といい、神田には二十二の古町がありました。慶長十一年(1606年)に起立した「田町」も江戸古町のひとつであり、神田で三番目にできた町です。現在の町名表記は「多町」ですが、町ができた当時は「田町」でした。神田はもともと低湿地帯で、「田町」も田を埋め立ててできた町と考えられています。
慶長(1596年~1615年)のころ、田町一丁目(現・多町二丁目)にできた青物(野菜)市は、草創名主(くさわけなぬし)(江戸成立期からの名主)の河津五郎太夫(かわづごろうだゆう)が開いたとされ、それは明暦(めいれき)の大火(1657年)後に大きく発展し、江戸幕府御用市場となりました。市場の繁栄と町の賑(にぎ)わいとともに、町名も「多町」へと変わりました。相対取引(あいたいとりひき)(話し合いで取引すること)で栄えた神田青物市場は、昭和三年(1928年)に秋葉原(あきはばら)へと移転するまで約二百七十年間続きました。市場は、江戸・東京の食を供給しつつ、粋(いき)な気負いの「神田っ子」といわれる気質を形成する源にもなっていました。
関東大震災後に道路や町が整備され、昭和八年(1933年)には町名地番が改編されます。これによって三百三十年続いた(旧)多町一丁目と(旧)多町二丁目などが合併してできた町会が、現代の多町二丁目町会です。当時、新たにつくられた(新)多町一丁目は、昭和四十一年(1966年)の住居表示の実施で内神田三丁目に編入されたために、今は多町二丁目だけになりました。