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神田練塀町と神田松永町の境界

以前下記の記事で台東区の旧町名「練塀町」のことに触れたことがある。

citywalk2020.hatenablog.com

 

今回は千代田区神田練塀町について調べてみよう。

きっかけはライオンズマンションに設置されているプレートだった。

同じ建物に違う町名のプレートが設置されている。

 

ライオンズマンション秋葉原は「神田練塀町

 

東全ゴム工業株式会社は「神田松永町

どうなってるんだ?

 

東全ゴム工業株式会社
創業は1921年(大正10年)10月で、2021年に創業100周年を迎えたそうだ。

 

他にもあった。

練塀町とかっこ書きで松永町と書かれている表札だ。

 

建築計画のお知らせ

ここにも神田松永町神田練塀町が併記されていた。

 

周辺にあった地図を見てみよう。

地図①

この地図だと神田練塀町神田松永町は完全に分かれているように見える。

 

地図②

神田練塀町神田松永町に一部食い込んでいるのが分かる。

 

地図③

こちらは色分けされていて神田練塀町神田松永町に一部食い込んでいるのが分かる。

 

地図④

この地図が一番わかりやすい。

神田練塀町44番地と45番地が神田松永町に食い込んでいるが、上の地図と位置が違っている。

どちらが正しいのだ?

 

ライオンズマンションは神田練塀町45番地と神田松永町17番地に建てられているということになるのであろうか?

 

Googleマップ神田練塀町の一部

 

Googleマップ神田松永町の一部


並べてみよう。

右 神田練塀町の一部

左 神田松永町の一部

Googleマップではライオンズマンション秋葉原神田練塀町にあることになっている。

そうなると東全ゴム工業株式会社の住所が神田松永町であるというのがおかしいということになると思うのだが・・・。

実際のところはどうなのかわからない。

という結論に達した。

 

神田練塀町にはバス停がある。

 

練塀を模したビルの壁

 

 

千代田区町名由来板

練塀町のものはお城の形をしている

練塀(ねりべい)とは、瓦(かわら)と練土(ねりつち)を交互に積みあげ、上を瓦で葺(ふ)いた土塀(どべい)のことです。瓦と土の織(お)りなす縞模様(しまもよう)が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。
江戸時代のこの界隈(かいわい)は、練塀が一帯に広がる武家地でした。ことに南北に神田から下谷(したや)まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、「下谷練塀小路」と呼ばれていました。古い資料を見てみると、「町の南隅(みなみすみ)の河野某(なにがし)の屋敷の練塀が立派だった」とあります。
また、ここには歌舞伎「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」や講談「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」で有名な御数寄屋坊主(おすきやぼうず)、河内山宗春(こうちやまそうしゅん)も住んでいたといわれています。
練塀町が正式な町名になったのは、明治五年(1872年)のことです。明治十一年(1878年)、町はいったん下谷区(現在の台東区)に編入されます。その後、昭和十八年(1943年)に、南半分が神田区編入され、昭和二十二年(1947年)、千代田区ができたときに神田練塀町(かんだねりべいちょう)になりました。
さて、明治二十三年(1890年)、町内に国鉄秋葉原(あきはばら)貨物駅ができ、おもに東北地方からの物資の受け入れ口になりました。大正十二年(1923年)の関東大震災後に、町の西部に神田青果市場が移ってくると、練塀町は東京の物流拠点のひとつになりました。平成十七年(2005年)には常磐(じょうばん)新線が完成し、電機の町はさらに大きな変貌(へんぼう)を遂(と)げました。

 

1872(明治5)年
下谷練塀町として、下谷練塀小路両側の武家地跡に成立。

1878(明治11)年11月2日
東京府下谷区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市下谷区に所属。

1943(昭和18)年7月1日
東京都下谷区に所属。

1943(昭和18)年9月15日
下谷・神田両区の境界変更で東京都下谷区練塀町の南半分が東京都神田区編入され、東京都神田区練塀町となる。

1947(昭和22)年3月15日
東京都千代田区に所属。その際に冠称を付し、「神田練塀町」となる。

1964(昭和39)年12月1日
住居表示の実施により、一部が現行の外神田四丁目となるが、残余は住居表示未実施のまま現在に至る。

 

明神坂ガード高さ制限バー支柱はステッカーが貼られまくりだった。

 

両側の壁には練塀が描かれている。


お城

 

千代田区の紋章

 

後日(2023年2月24日)、スズメと思われる鳥の絵が描かれていることに気が付いた。

 

松永町

練塀町と比べてシンプルなデザインの町名由来板だ。

ここはかつて松永町(まつながちょう)と呼ばれていました。この町名ができたのは今から三百年ほど前の元禄(げんろく)(1688年~1704年)のころです。
元禄十一年(1698年)、江戸城整備の一環として、鎌倉町(かまくらちょう)から西紺屋町(にしこんやちょう)(現・中央区)までの十五の町の一部を削って、外堀沿いの道が拡張されました。その翌年、これらの町に住んでいた人々が、現在の外神田一丁目(そとかんだいっちょうめ)周辺に代地(だいち)を与えられて移り住みました。このとき付けられたのが、「松永町」です。
名前の由来については明確な記録が残っていません。明治三十三年(1900年)刊行の「新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)」には、当時の人々が、新たな町に住むにあたって「松がいつも緑であるように、この町の賑わい(にぎわい)も永久のものであってほしい」という願いを込め、「松永」という名を選んだのではないかと記されています。
商人や職人の住む町として発展をとげた松永町ですが、幕府とのかかわりも深い土地でした。「文政町方書上(ぶんせいまちかたかきあげ)」によれば、町ができた当時、幕府お抱え(おかかえ)の絵師・狩野探信(かのうたんしん)の拝領屋敷も町内にありました。狩野派は幕府や朝廷の御用絵師として栄え、探信の父の探幽(たんゆう)は、「鵜飼(うかい)図屏風」や二条城(にじょうじょう)二の丸の障壁画(しょうへきが)などで知られています。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には、弓を射るときに用いる「ゆがけ(鹿革の手袋)」という道具をつくる御用職人・釘元又左衛門が住んでいたことも記録されています。
明治時代には、文豪森鴎外(もりおうがい)の住居も町内にあったと伝わっており、夏目漱石(なつめそうせき)もまた小説「草枕(くさまくら)」の中で、この松永町にふれています。

 

1878(明治11)年11月2日
東京府神田区に所属。

1889(明治22)年5月1日
東京府東京市神田区に所属。

1943(昭和18)年7月1日
東京都神田区に所属。

1943(昭和18)年9月15日
下谷区神田区の区境変更により、神田区松永町の一部を下谷区編入

1947(昭和22)年3月15日
東京都千代田区に所属。千代田区の成立に伴い、残余は現行の神田松永町となる。