歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

NTT日比谷ビルの仮囲いアートと鹿鳴館跡の現在と農産陳列所・蚕病試験場跡

このタイトルを見て何の関連性があるのかと思った方もいるかと思うが、探索中に近くで見つけたものを羅列しただけで、あまり意味はない。
あえて言うと、最後に載せた明治時代の地図に、同じ一角にあったということが共通点となる。

 

調べていたら、鹿鳴館跡の銘板が日比谷U-1ビル(旧NBF日比谷ビル)にあるらしいということなので、2023年6月3日確認するために訪問した。

 

千代田区エリアマップにも載っていた。

日比谷U-1ビルはNBF日比谷ビルのままだった。

 

手前に解体工事が行われているビルがあった。

NTT日比谷ビルだった。
右のお知らせは珍しく手書きのものだった。
電話のマークも手書きがいいね。

 

工事中の仮囲いに古い建物の写真などが展示されており、興味をそそられたので、1枚1枚写真を撮ることにした。

 

年代順に並んでいなかったので、並べてみた。

1961年
日比谷公園大噴水通水式

 

1962年
NTT日比谷ビル正面

 

NTT日比谷ビル 日比谷通りから

 

NTT日比谷ビル JR側から

 

NTT日比谷ビル 北西側から

 

NTT日比谷ビル 鳥瞰

 

1968年
有楽町付近

都電の姿がある。

 

1971年
有楽町付近

何のお祭りの時の写真なんだろう?

 

1983年
日比谷公園と丸の内ビジネス街

まだ東京駅付近には高層ビルが少ない。


以下は「NTT都市開発株式会社」の資料より

NTT日比谷ビルとともに、街の記憶を振り返る
NTT 日比谷ビル解体工事現場の仮囲いにアートを実施 

NTT都市開発株式会社(本社:東京都千代田区代表取締役社長 辻上 広志)は、事業者 10社で取り組む「(仮称)内幸町一丁目街区開発プロジェクト」(千代田区内幸)の推進にともない、2022年8月より NTT 日比谷ビルの解体工事を進めていますが、このたび、当ビルの所有者である日本電信電話株式会社と公共建物株式会社のご協力により、解体工事期間中における街の美観向上および賑わいの創出に寄与することを目的に、NTT日比谷ビルと街の歴史を振り返る仮囲いアートを実施することになりましたので、お知らせします。

■アートについて
アートを掲出する現地および街の記憶として、NTT日比谷ビルと日比谷・内幸町エリアの歴史を振り返る写真を使用し、一本の線が、歴史ある建物、街の記憶を未来へと繋いでいく様子を表現しています。

■仮囲いアート概要
期間:2023 年 4 月~解体工事終了まで(時期未定)
場所:NTT日比谷ビル(東京都千代田区内幸町1-1-6)

NTT日比谷ビル
NTT日比谷ビル(旧日比谷電電ビル)は、1961年(昭和36 年)に当時の電電公社の本社ビルとして竣工したオフィスビル

 

さて、NTT日比谷ビルの隣にNBF日比谷ビルがあるはずだが・・・。

えっ!

こうなっていた。

奥が解体中のNTT日比谷ビル

 

こちらも解体中であった。

 

銘板は保管されているのだろうか?

 

かつてあった銘板には次の文字が刻まれていたいたようだ。

鹿鳴館

ここはもと薩摩の装束屋
敷の跡であってその黒門は
戦前まで国宝であった
その中に明治十六年鹿鳴館
が建てられいわゆる鹿鳴館
時代の発祥地となった

千代田区

 

確認できなかった。

無いのだから仕方ない。

 

帝国ホテルの前に「農産陳列所・蚕病試験場跡」の説明板があった。

明治政府は農業振興のため1874年(明治7年)、内藤新宿勧業寮出張所(現在の新宿区)に蚕業試験掛と農業博物館を設立しました。蚕業試験掛では蚕糸業の振興と蚕病研究を目的として試験や研究が行われ、博物館では農産物や農業関係の物品を収集・展示しました。1883年(明治16年)、麹町区内山下町(現在地)に博物館の業務を継承する農産陳列所が設置され、その翌年に農商務省農務局の一分課として蚕病試験場が設置されました。陳列所では水陸の産物の他、関係の図書なども含めて5,000点近くが展示されていました。
1886年(明治19年)に北豊島郡滝野川村西ヶ原(現在の東京都北区)へ移転 して農務局蚕業試験場、東京高等蚕糸学校となり、研究が続けられました。さら 1940年(昭和15年)、北多摩郡小金井町(現在の小金井市)へ移転し、戦後に東京農工大学繊維学部(現在の東京農工大学工学部)となり現在に至ります。

 

以前設置されていたものは、シンプルだったようだ。

「明治政府は産業奨励のため、この地麹町区内山下町一丁目一番地(現千代田区内幸町)に農産陳列所を設置した。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、明治十七年(一八八四)四月、ここに蚕病試験場を設けて特に蚕業の振興を図った。この施設は明治十九年西ヶ原(現北区西ヶ原)に移り、東京高等蚕糸学校となり、さらに昭和十五年(一九四〇)小金井町(現小金井市)に移転し、東京農工大学(現工学部と農学部の一部)になっている。」

 

明治10年代の地図を見てみると、帝国ホテルはまだないが、鹿鳴館が載っていた。

農産陳列所附近 (明治10年代)  
(「五千分一東京図測量原図」より)

これを見ることができたのだから、我慢することしよう。