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江戸時代の帝国ホテル附近

帝国ホテル横(日生劇場側)に絵図板があり、この付近の江戸時代の屋敷図と現在の建物とを重ね合わせた地図が記載されていた。

 

発見日  2023年5月29日

発見場所 東京都千代田区内幸町一丁目

 

約四百年前まで、この帝国ホテルの玄関の辺りは日比谷入江と呼ばれる海岸線でした。
日比谷入江の南北の範囲は現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園皇居外苑、そして大手町まで続き、一方、東西は帝国ホテルの前の日比谷公園を隔てて、外務省などが立ち並ぶ「桜田通り」の西側まででした。
17世紀の初め、徳川幕府江戸城(現在の皇居)を大規模に拡張するため入江の埋め立てと、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じました。
(図の※印の大名屋敷はその当時から続いている大名家です。)
埋め立てられた入江のうち、愛宕下(あたごした)一今の港区内一から丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの約260年間にわたって「大名小路」(だいみょうこうじ)と呼ばれました。
この絵図板は1856年(安政3年)の頃の大名屋敷の配置を示したものです。
屋敷内には、大名の住む御殿、藩士の住む長屋や役所、厩、学問所、武道場等がありました。大藩では、5千人程度、小藩でも5百人程度の藩士が居住していました。
帝国ホテルの一角は、江戸時代の初めは徳川家康の孫の松平忠直(ただなお)の屋敷でしたが、その後、福島・白河藩の領主阿部家の屋敷となりました。この阿部家からは、阿部正外(まさと)が江戸時代後期に老中を勤めています。その屋敷の北東には、江戸城の城門の一つの山下御門があります。忠直(ただなお)以来、幕府に親しい大名がここに配置されたことは、この城門の重要性を物語っています。
帝国ホテルの南隣の島津家を初め、日比谷公園の半分以上は、毛利、鍋島、南部家といった、かつては徳川家に対抗し、その後、服従した大名達の屋敷でした。また、外桜田御門から虎御門までの「桜田通り」には上杉、浅野、黒田家、という有力大名の屋敷が並んでいました。
これらの外様大名の屋敷の間に大名の動向を監視する目的で徳川家の直接の家臣であった譜代大名の屋敷が配置されました。日比谷公園の南西に面した家庭裁判所の一角は、名奉行として名高い大岡越前守の屋敷でした。
1862年(文久2年)に幕府が一時、参勤交代制を緩和した時、毛利家は屋敷を取り払い屋敷の建材まで長州に持ち帰りました。その跡地が明治になって陸軍の練兵場として利用されました。
1871年(明治4年)に大名制度が廃止されると阿部家、島津家の一帯は山下御門の内側ということから内山下町(うちやましたちょう)という町名がつけられました。阿部家跡は博物館とその事務局となり、島津家跡は練兵場を経て1883年(明治16年)に“国営社交場”としての鹿鳴館(ろくめいかん)が出来ました。1890年(明治23年)には、その北隣の阿部家跡にわが国最初の本格的洋式ホテルの帝国ホテルが開業しました。
帝国ホテルと日生劇場との間の道は「御幸(みゆき)通り」とよばれていますが、その理由は、明治天皇が、仮皇居(現在の赤坂・迎賓館)から延遼館(えんりょうかん)一浜離宮庭園一に行かれる道筋だったためです。
この御幸通り沿いに、帝国ホテルや鹿鳴館が誕生したのは、わが国の近代化ぶりを世界に知らせるためでもありました。ちなみに赤坂での仮皇居時代は明治6年から15年間続きました。
①(南)町奉行
町奉行は町人対象の行政機関で、現在の東京都庁・警視庁・地方裁判所を兼ねたような役所でした。 (北)町奉行所が別にありますが、南北の区別は地域の区別ではなく、隔月交替で執務したためです。奉行も職員も二組おり、奉行(長官)は旗本の中から任命されていました。
②松平薩摩守斉彬(なりあきら)上屋敷
この島津家の屋敷は、琉球使節江戸城登城の際、屋敷内で服装を改めたことから『装束 (しょうぞく) 屋敷』とも呼ばれました。
島津斉彬(1809~1858年)は、「英明近世の第一人者」と称揚されるほど、この時代における傑出した大名で、外国と対等の交わりを主張し、殖産興業等の開化事業に力を入れました。その遺志が、西郷隆盛大久保利通に継承され、明治維新に結びつきました。
③松平時之助保申(やすのぶ)上屋敷
元禄時代、五代将軍綱吉に取り立てられた柳沢家の子孫の屋敷です。明治維新後、ここに東京府の庁舎ができました。府庁舎は1894年(明治27年)に丸の内に移転し、その後、市庁舎、都庁舎と名を改め、現在は新宿区へ移っています。

 

江戸図

【江戸図の凡例】

古地図の復元年次 =安政3年(1856) 縮尺=1/2,000
幕府の施設と用地
町人地
芝地
武家
道路
辻番
寺社地
河川/堀/池

●「~御門」は、見張りのための城門で厳重に警備されていた。
●◎印は「御役屋敷」または「役宅」といい、長官(旗本)の自宅と役所を兼ねていた。
武家地の赤い紋所は大名の家紋で上屋敷(藩庁)を現し、紋の方向の道路に表門があった。
●大名の国元・姓名・石高など記事の向きも正門の方向を示している。
●大名の国元(居城または陣屋)は、国名一藩名一(現県名)の順で現し、この表示のない屋敷の当主は幕臣である。
武家の当主名は、本姓一官名一諱(いみな)の順で、特に将軍家から松平姓を与えられた大名は、本姓を〔 〕で示した。
武家の石高と屋敷面積(㎡・坪)および役職は、安政3年当時の資料による。
●道路上に記された町名は、その両側の町を現す。武家地には、正式の町名はない。

制作=山下和正建築研究所
地図構成=中川恵司/菁映社
地図資料提供=朝日新聞社/東京地図出版
協力=㈱帝国ホテル
設置=千代田区観光協会 TEL:03-3264-0151

 

ただ書き起こしただけであるが、書いてある内容を読むと歴史の移り変わりを知ることができた。