歩・探・見・感

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ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

日高市や観光客を守っている魔除け「将軍標(チャンスン)」

日高市には「将軍標(チャンスン)」という魔除けが数多く存在している。

今回はそのチャンスンだけにフォーカスし、紹介することにしよう。

 

◎将軍標について
将軍標とは、元来朝鮮半島で怖い生き物や悪いものが入ってこないように願い、厄除け・魔除けのために各村々の入り口に建てられたものである。同地のことばでは「ジャンスン」「チャンスン」と呼ばれ、各地に残っている。

 

撮影日 2023年6月29日、7月6日

 

高麗川駅

奥武蔵ハイキングマップ

古代朝鮮半島高句麗と歴史的関わりが深い日高市では、ハイキングコース等で「チャンスン」をよく見かけます。高句麗では「チャンスン」 は村の魔除けとして建てられていました。 観光客や市民の方々が無事に過ごせるように、いつでも見守ってくれています。

モニュメント「日韓交流の塔」

駅前ロータリーに設置されている。

2004年(平成16年)2月に建設されたそうだ。

この塔(モニュメント)は、日高市朝鮮半島との交流の象徴としてのチャンスン(将軍標)と日高市の自然を融合させたもの。秋に約百万本の曼珠沙華ヒガンバナ)が咲き誇る巾着田周辺の高麗川の流れの形状や曼珠沙華をイメージした八本のアーチが重なり合って、日高市のシンボルである日和田山などの山並みを表現している。

高麗神社

在日本大韓民国民団中央本部が韓日国交正常化40周年と韓日友情年を記念して寄贈したもので、第2鳥居近くの特設スペースに、1本それぞれ8㌧の花崗岩で、左に天下大将軍、右に地下女将軍が高さ5㍍、直径70㌢の堂々たる風貌で立っている。

 

高麗山聖天院勝楽寺(こまさんしょうでんいんしょうらくじ)



高麗駅

真っ赤なチャンスンが駅前広場に立っている。

将軍標(チャンスン)は朝鮮半島に古くから伝わる習俗です。胴に記された「天下」「地下」の文字は目に見える世界から目に見えない世界まで、すべてを守る事をあらわし、村の入り口で魔を威嚇し、その侵入を防ぐことから、人々は魔よけ、災害防除、家内安全を祈願してきました。
高麗地域の歴史、文化、観光の活性化を図るために、高麗駅前広場に将軍標を再建しました。
西武鉄道株式会社
平成16年9月吉日

 

・材質 FRP(内部補強)

・サイズ 地上約7m、直径80㎝

 

高麗駅に設置されている「ようこそ高麗郷へ」の案内板

渡来人の里 高麗


1.紀元前37年から668年。朝鮮半島北部から中国東北部は「高句麗(こうくり)」という巨大な国が所有していました。しかし、唐と新羅の連合軍との戦いに敗れ、多くの高句麗人が海を渡り日本へ難を逃れました。

2.日本へ多くの渡来人がやってきました。日本では高句麗のことを「高麗(こま)」と記し、彼らのことを「高麗人(こまびと)と呼びました。高麗人は、東国7国【駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)】にも住んでいました。

3.当時の政権の大和朝廷は、716年武蔵国に「高麗郡」を置きました。東国7国に住んでいた高麗人達1799人は高麗郡に移住しました。
 高句麗の王族であり、すぐれた人物であった「若光(じゃっこう)」は、高麗郡の郡司に命ぜられ、郡を治めました。当時、未開地だった高麗郡内を開拓し、産業を興すなど、人々の生活を安定させました。彼らはそこで、生活の基盤を整え、役所の建設や道の敷設など、郡として必要な整備をしていきました。

4.高麗神社には高麗郡の郡司であった高麗王若光が祀られています。現在に至るまで、高麗王若光の直系によって護られており、多数の参拝者が訪れています。聖天院には、「高麗王廟」など、歴史的関わりの深い建造物があり、多くの方々が訪れます。

 

ところどころに設置されているチャンスン。

これはローマ字とハングルが併記されている。
聖天院が「syoudenintemple」となっているのに引っかかってしまった。
「しょう」は"syou"となっている。
"temple"は英語だし、ならば高麗神社は"koma Shrine"。

 

 

距離が書いてあると嬉しいのだが。

と思っていたら、

撮った写真を見ていたら、距離が書いてあるのを見つけた。