三鷹市の文化財を調べていたら、鷹場標石という物があるということが分かった。全部で5基あるらしいが、史跡になっているのはその内3基とのこと。
三鷹市には何回か訪問したことがあるが、今回は鷹場標石をターゲットにすることにした。なぜ鷹場標石をターゲットしたかというと・・・、特に理由はない。あえて言うならば、石柱だからということくらいか。3基とそれほど多く存在していないレアものというのもポイントかな。
ということで、9月に入っても34℃という真夏並みの気温だった。太陽の直射日光にも臆することなく、2023年9月2日、久しぶりに三鷹駅に降り立った。
と書いたが、三鷹駅自体のあまり記憶がない。あまりではない、記憶がない。あてにならない自分の記憶。
若年性認知症?
もうこの年だと、若年ではないか。
マジの認知症?
しかし、見覚えがあるところもあったと思われるので、単に忘れたということにしておこう。
駅前に地図があった。
そこに3基の鷹場標石が書かれていた。
へぇ~、結構な取り上げられ方だなあ。
駅前にある観光案内所に寄ろうと思ったが、待っている人がおり、すぐに入れそうもないので、帰りに寄ろうと思った。
しかし、帰るころにはすっかり忘れていて、そのまま電車に乗ってしまった。電車に乗ってから、あっ、しまった。寄るの忘れたと思ったが、後の祭り。
三鷹市役所
所在地 東京都三鷹市野崎一丁目1番1号
事前調査によると駐輪場近くにあるとのことで、道路に面したところにある駐輪場を探すが見つからない。
近くに地図があった。
駐輪場は中の方にもあることがわかり、地図に御鷹場標石と書いてあった。
どうやって行くん?
ぐるっと回ってようやく着いた。
上の地図と違っていた。
周りの駐輪場はなくなっていて、遊歩道になっていた。
三鷹市のホームページには市役所南側の雑木林内とあったが、雑木林もなくなっていた。
正面には「従是東西北尾張殿鷹場」という文字が刻まれている。
裏面
何か文字が見えるような気がするが、傷かな。
説明板
「江戸近郊御場絵図」 文化二(一八〇五)年 国立公文書館蔵
三鷹市指定史跡 御鷹場標石
江戸時代に江戸城から五里(約20km) の範囲は、御拳場とよばれる幕府直轄の御鷹場でした。その外側には徳川御三家の御鷹場が広がっており、三鷹市域は御拳場と尾張徳川家の御鷹場の境界に位置しています。この鷹場標石は、その境界に建てられていたもののひとつで、明和7(1770)年頃に建てられています。標石は、三鷹市内に7基あったと推定されており、そのうち5基(破片を含む)が現存しています。
鷹狩りは古墳時代にはすでに行われていますが、江戸時代になると徳川幕府将軍を頂点とした鷹狩りの体制が構築されていきます。徳川家康や二代秀忠はたびたび鷹狩りを行い、三代家光は井の頭池や牟礼野などの三鷹市域で鷹狩りを行っています。
五代将軍綱吉の時代に一旦廃止された鷹狩りは、八代将軍吉宗の時代に復活し、御拳場が定められ、6つの筋に分けて管理されていました。
三鷹の名は、中野筋の3つの領(野方領・世田谷領・府中領)にあった御鷹場が合併し、ひとつの村となることに由来しており、明治22(1889)年の三鷹村誕生の時に生まれました。
昭和53年5月8日 史跡指定 三鷹市教育委員会
以前あった説明板には下記が書かれていたようだ。
種 別 史跡
年 代 明和7年(1770)頃
指定年月日 昭和53年(1978)5月8日
所 在 地 三鷹市野崎1-1-1
江戸時代、江戸周辺の村々はすべて幕府の鷹場として指定されており、三鷹の北西部井口、大沢各新田は尾張徳川家の鷹場として定められた。尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部までの広大な地域におよんでいた。
鷹場の区域を示す石杭が明和7年(1770)頃に建てられた。大沢新田、野崎新田、井口新田など現三鷹市内には7基建てられた記録があり、その中の3基が現存している。これはそのひとつであるが、建てられたもとの場所は不明である。
なお、この標石は、長久寺の所有のもので、 同寺の好意により市が借用し、ここに設置したものである。
平成3年(1991)10月31日
三鷹市教育委員会
どうでもいい細かいところが気になる悪い癖。
「鷹場標石」や「御鷹場標石」と表示がバラバラ。
下の地図では「御鷹場の石碑」となっている。
下の写真は別々な場所にあったものだが、タイトルが違っている。
どれも同じものなので、「鷹場標石」に統一してほしい。担当課が違うからこうなってしまったのだろうか?
更に、現存しているのは5基、3基どちらが正しい?
これについては、調べていたら分かったことがあるので、後程。
吉野家門前
所在地 東京都三鷹市野崎二丁目
門前というのだから、道沿いにあると思い、1周するが、見つからない。吉野家の隣に駐車場があったので、そこから見える範囲を探してみるが、やはり、見つからない。
仕方ないので、先に長久寺に行こうと思ったところ、途中で下の地図を見つけた。
戻って確認してみよう。
しかし、道沿いにはやはり見つからない。再度駐車場から吉野家の敷地内を見る。
あれだ!
見つけることはできたが、敷地内だった。ネットで調べたところ、敷地内で撮ったと思われる写真が載っていたので、お願いすれば見学させてもらえるのかもしれないが、迷惑になるかもしれないので、あきらめた。三鷹市のホームページに「個人宅のため非公開」とでも書いてくれればいいのに。
正面には「従是西北尾張殿鷹場」という文字が刻まれているそうだ。
敷地内に設置されている説明板には下記が書かれているらしい。
三鷹市指定文化財 鷹場標石
種 別 史跡
年 代 明和7年(1770)頃
指定年月日 昭和53年(1978)5月8日
所 在 地 三鷹市野崎2-13-5
江戸時代、江戸周辺の村々はすべて幕府の鷹場として指定されており、三鷹の北西部井口、 大沢各新田は尾張徳川家の鷹場として定められた。 尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部までの広大な地域におよんでいた。
鷹場の区域を示す石杭が明和7年(1770)頃に建てられた。大沢新田、野崎新田、井口新田など現三鷹市内には7基建てられた記録があり、その中の3基が現存している。これはそのひとつであるが、建てられたもとの場所は不明である。
平成3年(1991)10月31日
三鷹市教育委員会
吉野家(名主の家)跡地
吉野家は江戸時代後期に建てられた農家である。このあたりは、江戸時代、武蔵国多摩郡野崎村であり、幕府及び尾張徳川家の鷹場になっていた。
江戸時代後期の野崎村は周辺の村と同様に水利がよくなかったことから、水田がなく、畑で大麦・小麦・粟・稗などが作られていた。その後、明治時代以降になると多くの農家で養蚕が盛んに行われるようになった。
吉野家は名主(村の代表)を務めており、「整形六間取り」という江戸時代の農家としては最大規模の間取りをとっていたことが大きな特徴である。このほか、宅地内には土蔵二棟・納屋・門などの附属屋があり、砂川用水も引き込まれていたという。
吉野家は、昭和38(1963)年に現在の江戸東京たてもの園に移築され公開している。
建設年 :江戸時代後期
構 造:木造平屋建
建築面積:199.07㎡
旧所有者:吉野悦時(よしとき)氏 三三鷹市教育委員会生涯学習課 電話 0422-45-1151
長久寺
所在地 東京都三鷹市大沢2-2-14
地図①
近くに下記の地図があった。
地図②
近くにあった②の地図を信じて、右側の行き止まりの道を進むが、お寺に入る道がない。
地図①の通り、地図②の現在位置の左側の道を歩いてみる。
説明板の裏みたいのが見えた。ここにありそうだ。
入口に戻る。
幼稚園が併設されているようだ。
今日は土曜日、境内には誰もいない。
入口が開いていたので、入ってみよう。お寺だからいいよね。
境内の左側にあった。
正面
「従是東西北尾張殿鷹場」という文字が刻まれている。
説明板
三鷹市指定文化財 鷹場標石
種別 史跡
年代 明和7年(1770)頃
指定年月 昭和53年(1978)5月8日
所在地 三鷹市大沢2-2-14
江戸時代、江戸周辺の村々はすべて幕府の鷹場として指定されており、三鷹の北西部井口、大沢各新田は尾張徳川家の鷹場として定められた。尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部までの広大な地域におよんだ。鷹場の区域を示す石杭が明和7年(1770)頃に建てられた。大沢新田、野崎新田、井口新田など現三鷹市内には7基建てられた記録があり、その中の3基が現存している。これはそのひとつであるが、建てられたもとの場所は不明である。
平成3年(1991)10月31日 三鷹市教育委員会
残りの2基について調べていたところ、大鷲神社付近に「井口新田字二ツ塚5番杭」が、また「塚」交差点付近には「井口新田字二ツ塚6番杭」という鷹場標石が建てられていたらしいということがわかったので、訪問してみることにした。
※参照 http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-1152.html
実は、ここを前回訪問する予定だった。
地図に印をつけていたのだが、見落としてしまい、訪問することを忘れてしまっていたのだ。
大鷲神社
訪問日 2023年9月5日
所在地 東京都三鷹市井口1-1-1
大きな銀杏の木が覆いかぶさっている。
武者小路実篤揮毫の社名碑
裏面の碑文
由緒
弊社ハ縁起不詳ナルモ江戸中期創建ト相伝フ当所ハ元二
ツ塚跡及徳川尾張公鷹場碑ノアリシ跡ニシテ祠ト供ニ約
三十間東方ニアリ明治初年道路改修ノ爲塚ハ撤去シ祠ハ
現位置ニ移ス尚祠内ニ鷹場碑破片ヲ蔵ス 連雀二ツ塚ハ
江戸中期ヨリ明治初期頃迄宿場トシテ繁栄シ近郷ニ聞エ
前方南北ニ通ズル道路ハ旧鎌倉街道ト伝フ 遺跡ヲ後世
ニ伝ル爲講者相寄リテ之ヲ建 昭和三十三年五月吉日
この碑文の中の「祠内ニ鷹場碑破片ヲ蔵ス」の部分に注目してほしい。
「祠内ニ鷹場碑破片ヲ蔵ス」とある。
「塚」交差点付近に建てられていた「井口新田字二ツ塚6番杭」がこの場所に移され、現在は祠の中に収められているらしいが、祠には鍵がかけられており、確認することはできなかった。
塚交差点
訪問日 2023年9月9日
「井口新田字二ツ塚6番杭」という鷹場の標石が建てられていたそうだが、何の痕跡も残っていなかった。上の大鷲神社の記事の中にも書いているが、ここにあった「井口新田字二ツ塚6番杭」は大鷲神社の祠の中に静かに眠っている。
この場所に設置されていた「井口新田字二ツ塚5番杭」は、現在は東大和市在住の個人宅内に保管されているそうだ。