当初探索する予定がない場所だった。
以前も探索したことがあるはずの場所だし。
でも設置されているものに引き込まれ、探索をすることにした。
たぶん以前は気が付かなかったもの。
気が付いていれば、興味があるものなので、探索していたはず。
ということは以前はなかったが、新しく設置されたもの?
う~ん、どうだったのかな?
自分の記憶は全くあてにならないので、考えるのはやめよう。
無駄だ。
それより、探索して発見したものを紹介することにしよう。
探索日 2024年3月28、30日
番町小学校
上半身だけの二宮金次郎像。
上半身だけのものも珍しいが、他のに比べがっちりしているような気がする。
二宮金次郎像の近くにある「望」像と?像
あゆみ
大合唱
みんなでつくろう ぼくらの番町を
わきあがる力で 元気に楽しくつくろうよ
うで組み かた組み 心あわせ
みん こんなでつくろう ぼくらの番町を
ラララ ラララ
ラララ ラララ
アーアーアー
第104回 卒業記念製作
この碑について調べてみたが、詳細は不明。
「創立百周年記念天皇皇后両陛下御行幸啓」の石碑
1971年(昭和46年)に創立100周年を迎えたが、新校舎建設中のため翌1972年(昭和47年)に、昭和天皇、香淳皇后を招き記念式典が行われた。
2021年(令和3年)12月4日に創立150年を迎えているので、その記念碑もどこかにあるのかもしれない。
定礎
番町文人通りでこんなものを見つけてしまった。
六番町案内
町会がこのようなものを作成するケースはあまりないだろう。
歴史に育まれ、文人たちに愛されたまち六番町
a~l
● 六番町ゆかりの人の旧居住地を示しています。
(場所については一部推定のものもあります)
*五十音順 *( )内は生没年または期間
a蘆原英了(1907-81)音楽舞踊評論
b有島生馬(1882-1974)洋画家★
c有島武郎(1878-1923)作家★
d泉鏡花(1873-1939)作家★
e市川猿翁(初世 1888-1963)歌舞伎俳優
f井戸[大内蔵]覚弘(?-1858)旗本・町奉行
g内田百間(1889-1971)作家★
h大熊喜邦(1877-1952)建築家
i大杉栄(1885-1923)思想家
j菊池寛(1888-1948)作家★
k北村寿夫(1895-1982)放送作家
l里見弴(1888-1983)作家★
歴史に育まれ、文人たちに愛されたまち六番町
m~z
m島木赤彦(1876-1926)アララギ派歌人
n島崎藤村(1872-1943)作家★
o神西清(1903-57)ロシア文学者
p直木三十五(1891-1934)作家
q中村吉右衛門(初世 1886-1954)歌舞伎俳優
r中村又五郎(2世1914-2009)歌舞伎俳優
s成瀬隼人正上屋敷(江戸年間)尾張徳川藩付家老
t火消御役屋敷(享保~天保年間)幕府役屋敷
u藤田嗣治(1886-1968)洋画家★
v松岡洋右(1880-1946)政治家
w松平摂津守上屋敷(文久年間)小幡藩主
x水上滝太郎(1887-1940)作家・実業家
y明治女学校(1885-1909)先進的な明治の女学校★
z吉住慈恭(1876-1972)長唄演奏家
★印は、記念碑を設置(2011.9現在)
六番町の地図。
A町名由来板
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
現在の番町小学校が建っている場所には、かつて定火消(じょうびけし)(消防)の役屋敷(やくやしき)があり、のちに上野小幡(こうずけおばた)藩上屋敷(かみやしき)となりました。四谷御門(よつやごもん)寄りの広い敷地には、尾張(おわり)藩付家老(つけがろう)成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)の上屋敷がありました。明治以降は、下六番町(しもろくばんちょう)という町名になり、昭和十三年(1938年)から現在の六番町になりました。
明治から大正・昭和にかけては、数多くの文化人や高級官僚の住宅地として発展しました。「破戒(はかい)」「夜明け前」の島崎藤村(しまざきとうそん)、「婦系図(おんなけいず)」「天守物語(てんしゅものがたり)」の泉鏡花(いずみきょうか)、アララギ派の歌人島木赤彦(しまきあかひこ)、「或る女(あるおんな)」の有島武郎(ありしまたけお)、「三田文学」で活躍した水上瀧太郎(みなかみたきたろう)、「父帰る」の菊池寛(きくちかん)、「多情仏心(たじょうぶっしん)」の里見弴(さとみとん)、「百鬼園随筆(ひゃっきえんずいひつ)」の内田百閒(うちだひゃっけん)など、多くの作家たちが居を構えました。また、印象派を紹介した画家で作家でもあった有島生馬(ありしまいくま)、エコール・ド・パリで活躍した画家の藤田嗣治(ふじたつぐはる)、歌舞伎俳優の初世中村吉右衛門(なかむらきちえもん)、初世市川猿翁(いちかわえんおう)、二世中村又五郎(なかむらまたごろう)、三世市川猿之助(いちかわえんのすけ)、長唄の吉住慈恭(よしずみじきょう)などの芸術家も六番町の住人でした。
かつては日本の近代的女性を育んだ(はぐくんだ)明治女学校、日本の歌壇の中心的存在であったアララギ出版所、菊池寛が創立した文藝春秋社もあり、白樺派(しらかばは)の誕生にかかわった有島邸や若い作家たちが集った鏡花邸など、まさに六番町から、日本の近代文学や芸術が開花したといっても過言ではありません。
B内田百閒記念碑
飄逸と諷刺の名文家
内田百閒 旧居跡地
UCHIDA HYAKKEN
内田百聞は、一八八九年(明治二十二年)岡山に生れた。
本名、内田栄造。別号百鬼園。夏目漱石門下の異彩として、随筆に、幻想小説に、鉄道紀行に、独特の文学世界を繰り広げた。
一九三七年(昭和十二年)、市ヶ谷仲之町から土手三番町三七(現五番町十二)①に転居してきた。昭和二十年五月の東京大空襲により居宅を焼失したため、隣家の松木邸の掘立小屋②に戦後も三年ほど住み続けた。
昭和二十三年、六番町六に、いわゆる三畳御殿③を新築し、一九七一年(昭和四十六年) 四月に亡くなるまでの後半生を、この番町で過ごした。
とくに昭和三十二年、愛猫のノラが失踪し、番町近辺を懸命に探索した様子を綴っ た随筆『ノラや」は、彼の韜晦な性格から醸し出す苦味とは別の人情味を知らしめた。
三〇年目の生誕日に、旧居跡地付近に記念碑を設置する。
平成二十一年五月二十九日
六番町町会
孤高の国際的洋画家
藤田嗣治(1886-1968)旧居跡
FUJITA TUGUHARU(LEONARD FOUJITA)
藤田嗣治は、明治十九年十一月二十七日、東京牛込に生まれた。
大正二年パリに渡り、やがてエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍。日本人で初めて国際的な評価を得た洋画家であった。とくに彼の描く「乳白色の肌」は、他の追随を許さない独自の画風であった。
昭和十二年七月、この地にアトリエを新築。昭和十九年に小淵村へ疎開するまで居住した。この頃に君代夫人と 結婚し、新婚生活をこの地で過ごした。また軍部の依頼でこの時期から多くの戦争記録画を制作したが、戦後そのために糾弾される。昭和二十四年渡米した後フランスに渡り、再び日本へ戻ることはなかった。
晩年はフランスに帰化し、レオナール・フジタとして昭和四十三年一月二十九日、チューリヒで死去した。享年 八十一歳。
一二〇年目の生誕日に、ここ旧居跡地に記念碑を建立し、彼の画業を顕彰する。
平成十八年十一月二十七日
六番町町会
この記念碑設置にあたっては、朝日写真ニュース社および麹町地区連合町会地域コミュニティ活性化事業実行委員会のご協力をいただきました。
D番町文人通り案内板
いかにも高級そうなマンション(ザ・パークハウス六番町)の一角に設置されていた。
今販売されている部屋は2LDKで16,580万円だって。
番町文人通り 今に残る江戸の町割
制 作 三菱地所レジデンス株式会社
監 修 都市史・建築史家 陣内秀信
制作協力 株式会社竹中工務店
江戸の都市構造と番町地区
番町とは
「番町」は、江戸城を警護する大番組の番士たちが居住する旗本屋敷が、城の西側であるこの地区にあったことが由来とされています。
家康直属の親衛隊である大番組をこの地区に配し、万一のときには将軍の逃げ道として、甲州路を抜ける道の安全を確保するための軍事的要塞拠点でした。
番町地区の町割
番町地区には300~900坪の屋敷が集中する旗本屋敷が並び、江戸時代の「旗本屋敷街」の町割を今もはっきりと読み取ることができます。
江戸から伝わる町割と都市軸
町割の寸法
番町の街区は、江戸時代の代表的な街区形状をしています。一街区の短辺方向(約60問) を背割りし、奥行約30間、間口約15~20間 を屋敷の一区画として計画されました。 (1間=約1.81m)
都市軸の方向
都市軸は、南西にある富士山を望む方向に、 合わせて計画されました。
また、土地の高低差を活かして街区を背割りすることで、屋敷が並ぶ東西方向は、尾根や谷底に沿って道を通すことができ、なだらかな道となっています。
武家屋敷の構成
中上級である旗本屋敷は、大名屋敷を模してつくられ、長屋門、住居、及び庭で構成されていました。
番町界隈の敷地は300~900坪ほどの規模で区画され、このような長屋門が並ぶ風格の ある屋敷街がひろがっていました。
旗本屋敷の長屋門
図:江戸幕府役職集成 笹間良彦 著 雄山閣出版
この界隈にみられる江戸~現代
本敷地は、江戸時代の敷地形状が今もそのまま残されています
江戸時代
番町界隈は、旗本が住む武家屋敷街として計画的につくられました。
本敷地は約450坪で、番町界隈の標準的な武家屋敷の区画規模となっています。
江戸時代に居住していた笠原平太夫は、 江戸城・京都二条城・大坂城を警護する 12組ある大番組の組頭のひとりとして大坂を護っていました。
明治~昭和
明治に入ると土地が細分化し、長屋門を構える武家屋敷も減っていきましたが、江戸時代につくられた街区の割り方や熊本屋敷の雰囲気は継承されていました。その後、この地区には文学者、陶芸家、画家、歌舞伎俳優などの多くの文化人が居住していました。本敷地には、元王子製紙社長の高島菊次郎氏をはじめ、山口や福島知事を歴任した原保太郎氏など、歴史的に活躍した人物が居住していました。
図:火炎保険特殊地図 1938年 都市製図社
現代
周辺の土地が共同化、または細分化される中で本敷地は、江戸時代からの敷地形状がそのまま残っており、旗本屋敷としての面影や規模を現代に伝える貴重な敷地です。
図:住宅地図 2009年 ゼンリン
許諾番号 Z11BB第841号
番町文人通り周辺に居住した文化人
・藤田嗣治(洋画家)
・島崎藤村(作家)
・初代中村吉右衛門(歌舞伎俳優)
・泉鏡花(作家)
・有島武郎(作家)
・有島生馬(洋画家、作家)
・里見弴(作家)
・菊池寛(作家)
・直木三十五(作家)
・武田麟太郎(作家)
・与謝野晶子、寛(歌人)
・網野菊(作家)
・中田孫一(詩人)
・川田半泥子(陶芸家、実業家)
本敷地の居住者
真鍋斌(1851~1918)
1878年(明治11年)から所有。陸軍中将。日露戦争の功により1911年から貴族院議員となり、陸軍省参 政官を歴任した。
原保太郎(1847~1936)
1900年(明治33年)から所有。岩倉具視の知遇を得て、山口県令、山口県知事、福島県知事、北海道庁長官、農商務省山林局長を歴任し、貴族院議員となる。
高島菊次郎(1875~1969)
1920年(大正9年)から所有。旧犬養毅の邸前にあった槐の大木を移植し、槐安居と称した。1938年に王子製紙代表取締役社長に就任。「製紙王」と呼ばれた。
まだこの日発見したものがあるのだが、まだ紹介しきれていない。
"六番町案内"の下の方をパソコンで見ると「★は、記念碑を設置」と書かれているじゃあ~りませんか。
小さくて見えんかった~。
これらは、ほとんど確認できていないことが分かった。
ということで、また行って確認する必要が出てきた。
後編に続く。