歩・探・見・感

歩・探・見・感

ノスタルジック、レトロ、ディープそしてマイナーな世界へようこそ

旧桜川小学校と旧南桜小学校と旧桜田小学校を偲ぶ痕跡 in 東京都港区

港区新橋を探索中に公園等で桜が付く旧小学校の痕跡を発見し、それらを辿ってきたので、紹介することにしよう。

旧桜川小学校

訪問日  2023年12月14、16日

訪問場所 東京都港区新橋6丁目20-1



「福祉プラザさくら川」の一角に痕跡が設置されていた。


桜川小学校記念緑地
「福祉プラザさくら川」は港区立桜川小学校の跡地に建設しました。
この緑地には学校正面玄関前に置かれていた記念物を移設してあります。
桜3株は学校時代に植栽されていたそのままの位置で保存してあります。
福祉プラザさくら川の2階図書室には桜川小学校記念 コーナーを設けています。
●移設した記念物
・校名石
・少女ブロンズ像
・記念樹木
  月桂樹 2株

●現地保存した樹木
・桜 3株
2006年(平成18年)5月 社会福祉法人長岡福祉協会

校名石



裏面


学校の沿革
明治六年四月一日
公立櫻川小学校として
旧木下侯郷塾育幼舎跡
に開校する
関東大震災には校舎が焼失し
芝小学校など三校で授業を行う
昭和十九年八月
栃木県塩原町へ集団疎開をする
幾星霜にわたり
地域の教育を担い
多くの人材を輩出する
平成六年三月三十一日
開校以来百二十年の
輝かしい歴史を閉じる
四月一日
港区立御成門小学校と
統合する

少女ブロンズ像

由来

希望の像は
桜川に学ぶ子どもたちの
とこしえの幸せと
たくましく未来に生き抜く
祈りをこめて
彫刻家 吉 野 毅氏が
   製作されたものである

一九七六年十一月六日

現地保存した桜



月桂樹

旧南桜小学校

訪問日  2023年12月14日、2024年2月日

訪問場所 東京都港区西新橋2丁目10-13



南桜公園と南桜小学校

関東大震災後の帝都震災復興事業により、昭和三年に、鉄筋コンクリー ト造の新しい南桜小学校校舎が竣工し、翌年には、隣接して南桜公園が開園しました。
昭和二十年の空襲の戦禍を逃れ、たくさんの子ども達が巣立ち、長い間地域の方々に親しまれた校舎でしたが、南桜公園の拡張整備のため、解体されました。
公園の中には、小学校敷地にあったソメイヨシノ二宮尊徳像、石碑が当時の思い出を偲ぶものとして保存されています。

小学校の歴史
明治10年
この地区の近くに前身である「第二中学区第二十八番公立小学櫻田女学校」が開校する(児童数160名)。

明治24年
校名が「南櫻尋常高等小学校」に変わり、男子も加わる(児童数200名)。

大正12年
関東大震災罹災

昭和3年
この地に完成した新校舎に移転。

昭和39年
西桜小学校と南桜小学校を統合し、「桜小学校」開校。

平成3年
統廃合により桜小学校廃校、鞆絵(ともえ)、桜田の各小学校を統合し、「御成門小学校開校

平成21年
旧桜小学校校舍解体

平成22年
校舎跡地が南桜公園となる。

(「港区教育史」ほか より)

南桜公園と周辺沿革案内

南桜公園の周辺は、江戸時代には多くの大名屋敷があった場所で、幕末には老中の堀田正睦中屋敷でした。江戸時代の大名屋敷地には、町名はなく明治5年に南佐久間町二丁目となり、その後の昭和7年に田村町三丁目と改称されました。 現在の西新橋二丁目となったのは昭和47年のことです。
また明治時代からこの一帯は、日本でもっとも早く西洋家具の製造が行われた場所であり、高級家具の 『芝家具』の名で全国に知られていました。
公園やこの周辺の 『南桜』の名称は、江戸時代以前にこのあたりから北方に桜田村があったことから南桜といわれたようです。
公園の設置は、昭和4年関東大震災の帝都震災復興事業により小学校に隣接して開設され、昭和25年に東京都から港区に移管されました。その後、桜小学校の廃校などを経て、面積を拡大して都市計画決定された街区公園として、平成14年から再整備を開始しました。この公園の中には、かつての小学校の名残である、二宮尊徳像や石碑、石段などを移設し、サクラなどの大きな樹木を残してあります。

創立八十周年記念



裏面

昭和三十三年八月二十四日
南桜小学校    協賛会
創立八十周年記念

みんな手をつないで

文字が彫られていたが、薄くて解読できなかった。

二宮金次郎



後ろ姿



製作者の刻印



左側面


旧町名が刻まれている。



井戸



田村のお化銀杏

田村のお化銀杏
江戸時代から大正時代にかけて、この界隈から南方面を望むと「田村のお化銀杏」と呼ばれた大銀杏が見えたといいます。このあたりがまだ武蔵野原であった頃に芽ばえ、高さ数十丈にまで生長したというその老巨木が夜の闇に浮かび上がる姿は、まさに「お化け」 に見えたことでしょう。
しかしこのお化銀杏、その大きさゆえ海上からのよい目印となり品川沖の水夫や船頭たちに親しまれてきたという側面ももっていました。
また、お化銀杏があった場所は江戸時代、奥州一関藩田村家の上屋敷であり、元禄十四年(1701)三月十四日に江戸城内松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩浅野内匠頭切腹し、終焉を迎えた地でもあります。
このように時代の事件をいくつも見てきたと思われるお化銀杏ですが、 大正十二年(1923) に関東大震災でほぼ焼失しました。

桜田小学校

訪問日  2023年12月16日

訪問場所 東京都港区新橋3丁目16-15



もう最悪~、痕跡は喫煙所の奥にあった。



子爵小笠原長正書



右側面



櫻田國民學校
昭和十七年慶



愛の像


寄贈:東京新橋ライオンズクラブ
制作:彫刻家 瀬戸団治(元日展評議員)

「平和をモチーフとする母子のブロンズ像」は、1976年9月に東京新橋ライオンズクラブが20周年記念事業として製作し、港区に寄贈したものです。
高輪築堤モニュメント工事を契機として、「愛の像」を今後とも新橋を見守る象徴とするため、新橋駅前から地元卒業生の母校であります旧桜田小学校校庭へ移設されました。

令和5年3月 東京都港区