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町名由来板「小川三丁目(北部)」と小川小学校跡地に残されていたもの

2024年1月13日、探索の途中に「小川三丁目(北部)」の町名由来板を発見した。

発見場所 東京都神田小川町三丁目6番地

江戸時代、小川町(おがわまち)は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
古くは、鷹狩(たかがり)に使う鷹の飼育を行う鷹匠(たかじょう)が住んでいたことから、元鷹匠町(もとたかじょうまち)と呼ばれていましたが、元禄(げんろく)六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉(つなよし)が「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んで(よんで)います。

安政(あんせい)三年(1856年)には、この絵図にも見られる通り、常陸(ひたち)土浦(つちうら)藩土屋家の上屋敷(かみやしき)がありました。土屋家の屋敷は、文久(ぶんきゅう)三年(1863年)に御用地となり、跡地は幕府の歩兵屯所(ほへいとんしょ)となりました。歩兵屯所は幕府の兵制改革にともない小川町のほか、西丸下、田安門外、大手前の四カ所に設置され、小川町には幕府歩兵第三番隊が入営していましたが、明治維新後に廃止され、跡地は町へと生まれ変わります。
明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。明治時代の町内には、牛肉鳥肉料理店や割烹(かっぽう)料理店、小間物店、洋傘店などがありました。
昭和八年(1933年)、区画整理により、ここは小川町三丁目(おがわまちさんちょうめ)となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目となりました。
明治以降、この周辺には学校が多かったため駿河台(するがだい)や神保町(じんぼうちょう)などとともに学生街として栄えていましたが、昭和三十年代ごろから学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が数多く出店し、スポーツ店街としても賑(にぎ)わっています。


千代田区のホームページには、設置年月日平成16年9月2日とあるが、地図が令和3年・2021となっている。
町名が変わった所があるのかなと思ったが、該当の町名は見当たらなかった。

見た後、立ち去ろうとすると小川広場の片隅にカッパ像らしき後ろ姿が見えた。



広場の中に入って確認してみる。

カッパ像ではなかった。

こんなところにカッパ像があるわけないか。

説明板を読むとここがかつて小川小学校であったことがわかった。

小川小学校は明治三三年(一九〇〇年)まさに二〇世紀の幕開けを前にこの地に創立された。次いで昭和六年(一九三一年)に幼稚園が開設された。
明治、大正、昭和、平成と四代にわたり神田の気風そのままの活気に満ちた教育が展開され多くの人材を世に送り出してきた。
しかし、地域社会の変化により人口が激減し、平成五年(一九九三年)近隣三校により新たにお茶の水小学校、幼稚園として再出発をした。
この少年像「見つめる」は、清き小川の象徴として、卒業生や地域関係者の尽きせぬ思いをこめ、この跡地に再建した。

もう少し沿革を調べてみる。

明治33年 東京市小川尋常小学校開校。
明治34年 高等科を設置し、東京市小川女子尋常小学校と改称する。
明治41年 男子も収容し小川尋常小学校と改称する。
昭和22年 学制改革により、千代田区立小川小学校と改称する。
平成5年   小川小学校、錦華小学校、西神田小学校が統合し、お茶の水小学校が開校。
     小川小学校は廃校となる。

全裸の少年像

ちょっと、いやかなり怖いかも。

台座には「見つめる」と刻まれている。



左側面


ここに清き小川の少年あり
その澄みたる眼は
永遠を見つめる

制作者 冨岡 泰
題 字 協賛会長 稲垣傅次郎

昭和五十五年十月十八日

千代田区立小川小学校創立八十周年
                 記念事業協賛会
千代田区立小川幼稚園創立五十周年

雪だるまフェアが開催されるとのこと。



雪だるまが21体も展示されるそうだ。

何か行きたくなってしまった。